かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(40)

2025年01月10日 | 脱原発

2016925

 ギュンター・アンダースは、ヒロシマ・ナガサキからスリーマイル島、チェルノブイリにいたる核の時代に発言を続けた反核の哲学者である。今年になってアンダースの論集の翻訳本『核の脅威』 [1] が新刊として出版された。
 アンダースは、原水爆が使用され所有される時代をアポカリプス、世界の終末へ向かう時代だと断言する。

――抽象的な言い方をすれば、一九四五年まではわれわれは、不朽と思われる種属、少なくとも「絶滅するか永続するか」と問うたことのない種属に属する死すべき一員にすぎなかった。それがいまやわれわれが所属しているのは、それ自体が絶滅を危惧される種属である。(この違いは勘違いされることはないだろうが)死を免れぬという意味でなくて、絶滅する可能性があるという意味で、死に定められているのだ。われわれは「死を免れぬ種族=人類(genus mortalium)」という状態から、「絶滅危惧種(genusmortale)」の状態へと移ってしまったのである。 (p. 224)

 「どんな人間でもいずれ死ぬのだ」という人類の時代から、「どんな人間でもいずれ殺されるのだ」という人類の時代を私たちは生きているということだ。次の文章の「核実験」を「原発」に置き換えて読むと、私たちが置かれている核時代の状況をよく説明している。

 わたしたちが立ち向かう相手、わたしたちが行為によって「取り組む」相手は個人ではなくてあらゆるものの総体になっています。今日極めて重大な意味で行為しなければならない人が出遭う状況は、個人に影響を与え得るような状況ではありません。そういう人が行為する場合、数十万、数百万の人々に関わることになります。しかもその数百万の人々は至るところにいて、それも現代の人々だけではありません。わたしたちの相手は人類にほかならないのです。実際の核攻撃は言うまでもありませんが、たとえば核実験によっても、地球上のあらゆる生物を襲いかねない以上、どういう核実験をやっても、それはわたしたちに襲いかかります。地球は村になったのです。こことあそこという区別は消えています。次世代の人々も同時代人なのです。――空間について言えることは、時間についても言えます。核実験や核戦争は同時代の人々だけでなく、未来の世代にも襲いかかるからです。 (p. 101)

 例えば、チェルノブイリ事故による死者数は98万5千人になるだろうとニューヨーク科学会は見積もっている [2]。たしかに福島の事故での死者数はチェルノブイリ事故と比べれば多くはないが、未来の死者はまだ数えられていない。チェルノブイリとは違って、福島はまだ5年しかたっていないのだ。
 『核の脅威』の最終章のアンダースの言葉は、私たちのデモの足取りをもっと強くと要求しているようである。

 しかし唯一確実なのは、終末の時代と時の終わりとの闘いに勝利することが、今日のわれわれに、そしてわれわれの後に登場する人々に課されている課題であり、われわれにはこの課題を先送りにする時間はなく、後世の人々にとっても時間はないということである。 (p. 286)

[1] ギュンター・アンダース(青木隆嘉訳)『核の脅威――原子力時代についての徹底的考察』(法政大学出版会、2016年)。
[2]
佐藤嘉幸、田口卓臣『脱原発の哲学』(人文書院、2016年)p. 34



2016年1028

 ここ一週間ほど、『通販生活』の記事がネットで話題になっている。2016年夏号で「自民党支持の皆さん、今回ばかりは野党に一票、考えていただけませんか」という大胆な記事で、山口二郎法政大教授、ジャーナリストの三上智恵さん、元自衛隊員の泥憲和さん、弁護士の太田啓子さん、SEALDs(当時)の奥田愛基さんの呼びかけを掲載した。
 その記事に対して寄せられた批判に答える2016年冬号の記事が多くの耳目を集めているのである。わが家での24日のことだが、ネット記事でそれを知って本を探したが見つからない。まだ届いていないと言った妻が、すぐに発行元のカタログハウスに電話を掛けた。
「うちは今日からの発送分だそうだから、明日には届くわよ」という妻に、「今日からの発送は、今日の発送を意味しない」などと茶々を入れたが、ほんとうに翌日には届いたのだった。ざっぱな日本語理解でもそれほど間違わず人生は送れるのである。

 冗談はさておき、問題の記事(『通販生活』2016冬号、p. 194)はこうである。読者からの批判の中から16通をそのまま掲載したうえで、批判に答える文章は次のように始まる。

 172人の読者のご批判は、おおむね次の3つに集中していました。
(1)
買い物雑誌は商品の情報だけで、政治的な主張はのせるべきではない。
(2)
政治的記事をのせるのなら両論併記型でのせるべきだ。
(3)
通販生活は左翼雑誌になったのか。

 (1)には「音楽に政治を持ち込むな」という類の論だとし、(2)には憲法学者の9割が違憲とするような「集団的自衛権の行使容認」などは両論併記以前の問題だと答えたうえで、(3)には次のように述べている。

 (3)についてお答えします。
戦争、まっぴら御免。
原発、まっぴら御免。
言論圧力、まっぴら御免。
沖縄差別、まっぴら御免。

 通販生活の政治的主張は、ざっとこんなところですが、こんな「まっぴら」を左翼だとおっしゃるのなら、左翼でけっこうです。

 「良質の商品を買いたいだけなのに、政治信条の違いで買えなくなるのが残念」と今後の購読を中止された方には、心からおわびいたします。永年のお買い物、本当にありがとうございました。

 見事である。こんな小気味のいい日本語をしばらくぶりで読んだような気がする。

 

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