かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『ゴーギャンとポン=タヴァンの画家たち』展 パナソニック汐留ミュージアム

2015年11月14日 | 展覧会

【2015年11月14日】

 こんなことを書くのはいささか口惜しい気がするが、正直なところ、ゴーギャンの絵は得手ではない。好きでも嫌いでもないのだ。世界的に評価されている画家の絵に感動しない自分の美的センスを疑うが、こればかりは修正もごまかしもきかない。
 ただ、この美術展はぜひ見たいと思った。「ポン=タヴァンの画家たち」というタイトルに惹かれたのだ。ポン=タヴァンの画家たちという私のよく知らない画家たちの作品に出会えるだろうという期待である。


ポール・ゴーギャン《ポン=タヴァンの木陰の母と子》1886年、油彩・カンヴァス、
93×73.1cm、ポーラ美術館 (図録 [1]、p. 30)。

 のっけからの困惑である。《ポン=タヴァンの木陰の母と子》には、森の小径で休息する母子が描かれている。二人の前には、小道の右端から切れ落ちた低地に広がる林が広がっている。
 そのような空間把握でいいのだと結論づけたのは、この絵を見始めてからしばらくたってからである。斜めに走る小道の右端が切れ落ちていて、広がる林が低地になっていると受け取ることができず、それでいながら、右手の木々の根元は確かに低い位置に見えることにしばらく途惑っていたのである。
 上の結論にも一抹の不安はあって、帰宅して図録を眺めてもう一度自分を納得させたのである。作品を味わうプロセスが、描かれた風景の空間把握の作業にないがしろにされてしまったような気がして心残りがしたのだった。
 ゴーギャンがあまり遠近法に拘っていないことは知っているつもりだったが、自分があまりにも古典物理学(ニュートン物理学)な時空把握から抜け出せていないのではないかなどと考えた。そういえば、量子論を習い始めた頃、その物理的世界像をイメージできなくてだいぶ悩んだことがある。キアロスクーロのような古典的な描法を好みとする鑑賞力が近代絵画についていけない、ということにすぎないのかもしれないが……


ポール・ゴーギャン《ブルターニュの子供》1889年、パステル、水彩・紙、26.3×38.21cm、
福島県立美術館 (図録、p. 43)。

 《ブルターニュの子供》ではもう悩まない。ゴーギャンらしい平板さをそのまま受け止めることができるし、少女のスカートの色彩を楽しむことができる。ゴーギャンが人物を描くと、人間たちが醸し出す雰囲気は「ゴーギャン的雰囲気」としか呼べないような独特な画調が顕われてきて、いつも不思議に思う。


ジャン=ベルトラン・ペゴ=トジェ《昼寝》1911-12年、油彩・カンヴァス、88×130cm、
カンペール美術館(ロリアン美術館寄託) (図録、p. 93)。

 ペゴ=トジェの《昼寝》はとても印象的である。「総合主義」の画家らしい太い輪郭線の絵である。《昼寝》する男性の寝姿というか、ズボンやシャツの質感がとてもいい。太めの輪郭線なのに、衣服の柔らかさを通じて肉体のしなやかさを表現しているようだ。上部の木々によって区切られた遠景のオレンジ色の夕焼け空も印象的な作品だ。
 手前から向こうに連なっている石積の塀の距離観とこちらを向いている女性の距離観が違うように見える。石積塀を急速に小さくなるように描いた効果かもしれないが、距離からみれば婦人座像はやや大き過ぎるように感じる。こうした奥行き感のアンバランスな表現は、昼寝をする青年への女性の興味の強さを象徴してでもいるのだろうか。ちょっとした遠近感のアンバランスも含めて、太めで柔らかい線描輪郭が印象的な作品である。


【左】エミール・ベルナール《会話(ステンド・グラスのエスキス、サン=ブリアック)》1887年、
水彩・紙、28.4×21cm、ブレスト美術館 (図録、p. 49)。
【右】ポール・セリュジュ《先頭アーチの風景》1921年、油彩・カンヴァス、105×65cm 
(図録、p. 103)。

 私はあまりゴーギャンやポン=タヴァンの画家たちが唱えた「総合(統合)主義」を理解してはいないのだが、奥行きの感じられない平面的な表現や太い輪郭線と平塗りという特徴を極端にすればステンド・グラスのようになる。そんなふうに思っていた私の前に《会話(ステンド・グラスのエスキス、サン=ブリアック)》の展示が現われたときには、いくぶんその偶然に驚いたが、大いに納得もした。
 《会話(ステンド・グラスのエスキス、サン=ブリアック)》と比較すると、セリュジュの《先頭アーチの風景》の不思議な魅了が理解できそうだ。先頭アーチで区切られた風景は、リアルな遠景であると同時に、先頭アーチを外枠として太い輪郭線で区切られた1枚のステンドグラスのようにも見える。実際にはもう少し複雑で、手前の高い緑の木と紅葉する木が大きなステンドグラスの前にあるようにも見え、平面の重なりが奇妙で魅力的な空間を構成しているように感じる。


【左】ポール・セリュジュ《呪文或いは物語 聖なる森》1891年、油彩・カンヴァス、
91.5×72cm、カンペール美術館 (図録、p. 49)。
【右】ジョルジュ・ラコンブ《赤い土の森》1891年、油彩・カンヴァス、71×50cm、
カンペール美術館 (図録、p. 69)。

 《呪文或いは物語 聖なる森》や《赤い土の森》の幻想的な森の表現に、平面的な描法がとても効果的である。平塗りのせいか、どちらの作品も日本画的なフレーバーを強く感じる。
 この森の幻想性を描いた2作品は、ルネ・マグリットの《白紙委任状》[2] という森の中を行く騎手と馬の像を描いた騙し絵風の作品を思い起こさせる。そこでは、樹幹に隠れているはずの姿が見え、樹間から見えるはずの姿が消えている。人間の寿命をはるかに超える木々が群生する森は、いつでも私たちにとっては幻想の源泉なのかもしれない。


シャルル・フィリジエ《ル・プールデュの風景》1892年、グワッシュ・紙、
26×38.5cm、カンペール美術館 (図録、p. 62)。

 「シュルリアリズムの先駆者」(図録、p. 60)と呼ばれたシャルル・フィリジエの「真の代表作」(p. 62)と評されているのが《ル・プールデュの風景》である。輪郭線と平塗りには違いないが、他の総合主義の画家たちとは大いに異なっている。
 木立の上に立ち上がっている奇妙なものが大きな樹木であることを理解するのにそれなりの間があったし、鳥が飛んでいると思ったのはヨットで、背景が空ではなく海であることを知り、そして上端の灰色が装飾枠ではなく空であることをやっと知るのである。絵の前でそんなふうに時間が進んだ。
 これはたしかに風景画だが、輪郭線と平塗りを徹底していく先に見えてくる抽象の美への道筋を示している作品に違いない。それが抽象画の世界か、超現実主義の世界か、私には分からないけれども


マキシム・モーフラ《黄色い黄昏、海岸の泥炭地、ロクテュディ》1898年、
油彩・カンヴァス、51.5×65cm、カンペール美術館 (図録、p. 75)。


マキシミリアン・リュス《岩石の海岸》1895年、油彩・板、25×40cm、
カンペール美術館 (図録、p. 113)。

 《黄色い黄昏、海岸の泥炭地、ロクテュディ》も《岩石の海岸》も海岸の風景画である。泥炭地というものをまったく知らない私は、それの様子を知りたくてモーフラの作品に見入ってしまったのだが、泥炭地の実態が理解できるはずもなく、潮が引いて複雑な模様を見せる浅瀬に残された小舟の影などを眺めていたのである。
 マキシミリアン・リュスの絵については、今年の1月に『新印象派展』(東京都美術館)で《海の岩》や《工場の煙突》など数点の作品を見る機会があった。新印象派の点描の画家という括りであったが、点描でありながら筆致の力強さにうたれた記憶がある。
 《岩石の海岸》は小品というためか、必ずしも点描というわけではないが、筆致の力強さと色彩の大胆な変化など、以前に見た作品と同じような印象を受けて好もしい。


フェルディナン・ロワイアン・デュ・ビュイゴドー《藁ぶき家のある風景》1921年、
油彩・カンヴァス、81.5×60.5cm、カンペール美術館 (図録、p. 91)。

 《藁ぶき家のある風景》は、絵のど真ん中に太陽を配するという大胆さとその色彩の美しさにうたれた美術展で1番のお気に入りの作品である。絵の大半を空が占め、空の上部は青空へ、下部は夕焼け(あるいは、朝焼け)へと染まっていく。
 主題はあきらかに太陽が沈む(あるいは、昇る)時間帯の空気だと思うが、下部に小さく描いた藁ぶき家をタイトルに持ってくることも好もしく思える。
 ビュイゴドーはまったく初めての画家だが、図録解説に「点描主義と分割主義を混同した独自の道をたどって進んだため、絵画の核心からは遠ざかったままだった」とか、1921年制作の本作品は「かなり伝統的な印象主義のタッチ」(図録、p. 91) で描かれているという評があった。とすれば、私がビュイゴドーの他の作品に出会うことはもうほとんどないと思われる。貴重な1枚ではある。

 

[1] 『ゴーギャンとポン=タヴァン展』(以下、図録)(ホワイトインターナショナル、2015年)。
[2] 『マグリット展』(読売新聞東京本社、2015年) pp. 230-31。
[3] 『新印象派――光と色のドラマ』(日本経済新聞社、2014年) pp. 118-23。

 

街歩きや山登り……徘徊の記録のブログ
山行・水行・書筺(小野寺秀也)

日々のささやかなことのブログ
ヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (小野寺秀也)
2015-12-20 07:40:47
コメント、ありがとうございました。

ゴーギャンはともあれ、ポン=タヴァンの画家の絵を見ることができたのが何よりでした。
知らない画家に出合えるのが、美術展の魅力ですね。
仙台に住んでいるので、東京ほど機会に恵まれているわけではありませんが、何とかもっとたくさん見たいものだと根があっています。
返信する
ゴーギャンとポン=タヴァンの画家たち (dezire)
2015-12-20 05:57:59
こんにちは。
私も『ゴーギャンとポン=タヴァンの画家たち』展を見てきましたので、各作品の丁寧なご説明を興味を持って読ませていただきました。
ゴーギャンがブルターニュのポン=タヴァンで、エミール・ベルナールらと出会い、お互いに影響を受けつつ「総合主義」という前衛的な美術を築いていく過程が理解できてよかったと思いました。

ゴーギャンがブルターニュのポン=タヴァンで、エミール・ベルナールらと出会い、お互いに影響を受けつつ「総合主義」という前衛的な美術を築いていく過程が理解できてよかったと思いました。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。