かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】脱原発デモの中で (1)

2024年04月25日 | 脱原発
 
 今日は、大間原発に反対している青森からの参加者のスピーチ、パントマイムでのスピーチ(?)などがあった。それに、前回のデモの際の「東北電力」の対応の報告があったが、「東北電力」的観察力によれば、どうも私たちはテロリスト同然の人間らしいのだ。まぁ、見るべきものが見えないからこそ原発に固執しているのだろうけれども。
 ネットを眺めていると、「反原発」と「脱原発」の違いを気にする人がいて、「脱原発」はダメだと主張したりしている。原理主義的な主張というのは必ずどこでも顔を出し、しかも議論には強い。すべての条件を無視して原理だけを主張すればいいので負けないのである。「ラディカリズム」に主導されて、何十人もの犠牲者を出しながら自滅していった左翼運動を、40年ほど前に見ていた私は、本質主義の意匠を装った原理主義が嫌いである。
 「反原発」と「脱原発」の概念の差違の吟味に意味がないとは主張しないが、「原発はやめよう」くらいのゆるい同意で集まることだってきわめて重要な意味がある、と私は思う。
 東京では、政治家とデモ側(主催者)との会談が持たれたり、野田首相もデモ側の人たちと会うとか会わないとか言われているらしい。そうなるとまた、彼らはわれわれを代表していないだとか、会談ではなく交渉をやれだとか、いっそうかまびすしくなっているようだが、何とか乗り越えてほしいと思う。
  というより、政治家のパフォーマンスに一喜一憂するなんて馬鹿げている。淡々とデモを続ける方がよっぽど力になる場合もある、と思う。
 
 
 主催者挨拶とスピーチはすぐに終わって、さっそくデモに出発である。先週の金曜デモに比べると、やや静かに進んで行く。たまたま私の周囲はおとなしい人たちだったのかもしれないが、たぶん、ハンドマイクの数が少ないためだろう。静かなデモも悪くはない。 あっという間に肴町公園に着いてしまった。そこで参加者の「一分間スピーチ」が始まる。京都から参加した仙台出身の人、園庭の土を入れ替えた話をした幼稚園の園長先生、ACTAの危険を訴えた若い人、などなど。
 ACTA(Anti-Counterfeiting Trade Agreement)は、偽造品の取引の防止に関する協定とか模倣品・海賊版拡散防止条約と呼ばれていて、その言い出しっぺは日本、自民党・小泉内閣である。
 最大の問題点は、表現の自由や通信の秘密を脅かす可能性が非常に高いというところにある。つまり、フェースブックを最大に活用した「アラブの春」のような運動は政権側に容易にその通信手段を奪われる可能性が出てきた、ということである。もちろん、twitterに連絡手段の多くを依存している現在の脱原発運動を妨害することも容易にできる、ということだ。
 ヨーロッパでは激しい反対運動が起こり、欧州議会は条約批准を否決した。ところが、日本ではこそこそと話が進められ、この8月3日に参議院で条約締結が賛成多数で承認されてしまった(衆議院はまだだが)。
「脱原発運動はシングル・イッシュウで」ということが、デモ(集会)参加者の共通理解になっていると思うが、現実的にはACTA問題のようなことが次々に起こってくる。
 論理的には、脱原発運動を維持し、成功させるためには反ACTA運動も必要である。だからといって戦線を拡大することは「シングル・イッシュウ原則」を壊してしまう。たぶん、原則的な方法論上の答えはないだろう、と思う。完全な包摂でもなく、完全な排除でもない妙手はないものだろうか。結局、リーダーの皆さんの柔軟な対応力に頼るしかないのかもしれない。

 

 

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