北九州八幡から発信
八幡、やはた、やわた、はちまん
山へ山へと、八幡はのぼる
山へ山へと
八幡はのぼる
はがねつむように
家がたつ
昭和5年、八幡を訪れた詩人・北原白秋は、
当時の八幡の様子を、こんな風に表現しています。
(『八幡小唄』の一節です。)
確かに八幡も北九州は、山が海岸に接近していて、
人口が増えると、山へ山へと、登らざるをえません。
今回、白秋が印象に残ったのは、この辺りでは?
と思われる【枝光地区】を、少し歩いてみました。
(↓ 写真は枝光本町です。)
製鉄本事務所跡のロイヤルホテルが見えます。
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明治22年、尾倉・大蔵・枝光の三村が合併して、
八幡村が誕生した時、人口は、1,229人でした。
明治34年の製鐵所、創業開始当時は、6,652人、
白秋が来幡した昭和5年は、163,218人です。
( 大正15年に、当時の黒崎村を編入していますが、
それより西の上津役・折尾・香月・木屋瀬地区は、
まだ八幡には入っていませんでした。 )
平成23年8月現在の八幡東区の人口は、71,597人です。
今の八幡東区は、
昭和5年と比べれば、黒崎地区が入っていません。
それにしても、
当時のエネルギッシュな躍動が感じられます。
う~ん、今より栄えていた!
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白秋が来幡した昭和5年に完成した
製鐵所の炭滓線・宮田山トンネルの入り口です。
この鉄道は、製鐵所の八幡地区と戸畑地を結ぶ専用鉄道で、
当初は、八幡地区の溶鉱炉から出る鉱滓を、
戸畑地区の埋め立てに、使うための輸送用でした。
(トンネルの全長は、1,180メートルあります。)
驚いたのは、開通当初から電化されていたと言うことです。
鹿児島本線が電化されたのは、昭和30年代半ば頃からですから、
当時の地元の人は、煙の出ない電気機関車に吃驚しただろう?
炭滓線は、現在は【くろがね線】とも呼ばれています。
以前は、複線だった筈だが、
あまり使われてないのかなぁ?
(↓ 八幡構内方面へ、)
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炭滓線の宮田山トンネルの上です。
急な坂は「望玄坂」と名前が付けられていました。
最近、整備されたようで、両側に古い家も新しい家も、
「山へ山へと 八幡はのぼる」
↑上の宮田山トンネルの写真で、
トンネルの上に白く見えるのが、
この坂です。
この「望玄坂」の途中から、左に曲がって進むと(↑上の写真)
九州国際大学付属中学・高校がありました。
撮影は8月(野球部が)甲子園へ出発する前でしたが、
グランドにはサッカー部?が5、6人いました。
この辺りからの眺めは素晴らしいです。
洞海湾、スペースワールド、そして皿倉山も。
旧電車通りを跨いだ炭滓線(くろがね線)枝光鉄橋も見えます。
小高い所から見た大蔵と戸畑方面です。
ここでも所狭しと、家・家・家と密集しています。
「はがねつむように 家がたつ」
ロイヤルホテルの裏の小高い丘(枝光公園?)に登って、
反対側に出たら、スペースワールドが目の前でした。
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今の枝光地区の、ほんの一部の紹介でした。
実は、現役の頃、ここの昼間人口に入っていました。
だけど、周りは殆ど知らないです。
炭滓線の宮田トンネル入り口は、大体分っていたが、
実際に見るのは初めてでした。
ましてや、「望玄坂」など知る由もなし、
写真では分かり難いが、かなりの勾配です。
(エスカレータみたいのが、あれば便利なんだが、)
社会問題の少子高齢化で、ここでも「買い物難民」が多く、
近くのタクシー会社が、乗り合いタクシーを走らせているとか。
秋風が吹いて、私の一番好きな季節です。
長い夏休み?も終わって、ブログ再起動しました。
拙い記事ばかりですが、また宜しくお願い致します。
トップの北原白秋の詩碑は、高炉台公園の中腹、
昔は工場、今はスペースワールドの見える場所にあります。
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