ホクトマンのアドブログ

アドベンチャープログラムを愛するすべての人と、そうでもないすべての人へ。ひとりごと、今思うこと、泣き言、楽しか

僕の講習会との向き合い方

2018-12-18 | 雑念
何もしていないように見える

それがファシリテーションのひとつの手法と説明してもいいかもしれない。

僕は指導者が声を出して、インストラクションしている時は参加者の考える時間を奪っていると考えるようにしている。

しかし勘違いして欲しくないのは、インストラクションしないということではない。

ダラダラ長くしないようにしたいということだ。

簡潔に、分かりやすく、安全面にも配慮して、なによりゴールへのモチベをあげるインストラクションをシンプルに

参加者のクリエィティビティや考える時間をリスペクトしていたい。

そして改めてそれを感じたのは、逆にそのスキルを求めている人への講習会の指導をした時。

何もしないように見えるわけだから、スキルを得たい指導者としては物足りない。

その需要と供給のアンバランス

参加者はスキルを得たいと思っているのだから、指導者はそれを提供することの方が大切とする考え方もある。

それがニーズだということも重々承知である。

しかし、だからと言ってお笑い芸人の師匠が弟子に「お笑いとはこうこうこうで、笑いが生まれるからここでこうした方がいい」とスキルを教えるだろうか?

たしかにNSC(吉本総合芸能学院)では、そういうことを教えてくれるのかもしれない。

しかし結局、本物のお笑い芸人がどの様に考えていったかを想像するに「如何にお客さんを笑わせるのか?」「自分たちの能力をどの様に使って笑わせていくのか?」と自分たちで自分たちの笑いを

考えた

はずである。
その考えるきっかけの場を作るのが師匠の仕事であると思う。

つまりスキルが知りたいならネットや本で学べばいい。

しかし考えるきっかけや参加者のモチベーションを高めるためには、自分自身が心が震えるほどの感動を体験する必要がある。

そして指導者になったら、参加者の心を動かすにはどうしたらいいのか?を常に考える方が重要だと思うのだ。

正直その方法には答えがない。

だからスキルやネタをいくら紹介しても自分のフィールドに持ち帰ってもうまくいかないのだ。

ニーズに合わせて、指導者養成で自分のスキルを解説するような指導者になるのか?

それとも体験学習の本質を提供して、如何にも何もしていないように見える指導者になるのか?

僕は後者でありたい。

僕に仕事を依頼する人が「スキルを解説してください」と言ってきても一回話をして軌道修正したい。

本当は何を目的にしているのかを聞きたいものである。

それでもネタ披露やスキル解説を求めるのであれば、「他の人に依頼して下さい」と仕事を他人に譲りたい。

受験勉強みたいな講習会には興味がないのである。僕は参加者と哲学や研究をしたいのである。

どうやら僕は学者魂があるのかもしれない。

ちなみにあなたの周りの考える指導者たちは必ず師匠の模倣からはじまり、本質を見つめて独自のスタイルを見つけているはずである。

「講習会なんだから何か教えて下さいよー」と不満気な自分を「答えを求めるだけの考えない人」と認めて、改めたいものである。