■そして夜は甦る 2023.9.4
『ハヤカワミステリマガジン/2023年9月号』は、「特集 追悼 原尞1946-2023」だった。
作家原尞がこの5月、惜しまれつつ亡くなった。享年76
1988年 長編「そして夜は甦る」
1989年 第2作「私が殺した少女」
1995年 第3作「さらば長き眠り」
2004年 第4作「愚か者死すべし」
2018年 遺作となった第5作「それまでの明日」
日本ハードボイルド小説史に大きな足跡を残した“伝説の男”を偲び、
本特集をもって哀悼の意を表す。
本特集に寄せられた追悼文のなかで、東京新聞記者臼井康兆氏の「アウトローの生き方教わった」に、ぼくも同じ思いを感じました。
「沢崎」のように身を低くして生きたい。矜持を保ち、人の情を大切にして…………。アウトローの生き方を、原さんに教わった思いがする。
ハヤカワミステリマガジンの追悼特集を読んでいたら、もう一度、西新宿の探偵沢崎の話が聞きたくなりました。
そこで、第1作「そして夜は甦る」から、順次、読み直してみることにしました。
35年前に読んだミステリ。内容、結末、果たして覚えているか? 確認しながら、楽しく読み返したのですが、あらら、よく覚えていません。
時々、記憶の底から浮上!ふわ~うっすらと、浮き上がってくるのですが。
これは、大変に楽しい体験でした。
私は椅子のところまで引き返した。「あなたのご主人を捜しているのは、ここにいる皆さんだけではないようです。昨日、韮塚弁護士から電話がある少し前に、ある人物が私の事務所を訪ねて来て、やはり佐伯氏のことを質問した。佐伯氏がルポーライターであることは、その人物の口から聞いて知っていたのです。佐伯直樹を知っていると答えるのはいささか抵抗があったが、知らないと答えるのも似たようなものでした」
三人の顔に同じ疑問が浮かんだ。それを口にしたのは名緒子たった。「佐伯を捜している人物とおっしゃるのはどなたですか」
「それはお答えできない……その人物は、私の依頼人なのです」確かに、私のデスクの引き出しには、あの男から預かった二十万円か入っている。それにしても、最近どうも嘘すれすれの発言が多くなった。注意しないと癖になりそうだ。
「守秘義務ってわけか」と、韮塚は言って冷笑した。「法律的には、探偵にそんなものはないんだ」
「法律の世界だけがこの世界ではない」
「では、道義上の問題かね。守らなければならない秘密は守る----大いに結構。この狂ったご時世だ、探偵に道義かあっても少しもおかしくないさ」
「守りたい秘密は守る----それだけのことだ」
「韮塚君、もうそれくらいにして下さい」と、更科氏が釘をさした。相変わらず言葉は丁寧だが、効果は訓練の行き届いた犬に命令するのと同じだった。
「真実というのは、ばれない嘘のことだ----と言いますからね」更科氏はわざと俗っぽい口調で言った。
彼は頭を振った。「あたしだって旦那のことは心配してるんだぜ。フン、あしたなら何時でもいいよ。フィルムには何が写ってるんだ?」
「分かっていれば、こんなところへぼられには来ない」
「それもそうだ」彼は黄色い歯を見せて笑った。「ところで、あんたいくつになった? 左のこめかみに白いものか一本まじっているよ」
「女房をモデルにしたエロ写貞のフィルムを持ち込むような連中は、おまえのニセ盲を本当に信じているのか」
眼が見えなくても、現像や焼付けができると本気で信じているのか」
「さァ。どうだかね。そう思ってりゃ、写真を取りに来たときすました顔をしていられるのさ」
「労せずして集めたエロ写真のコレクションや、そのコピーで稼いでいることを知ったら、そういう連中も平気な顔ではいられないだろう」
写真屋は黒眼鏡越しにじっと私を見た。それから、頭を振って悲しそうに言った。「そんなことは百も承知で、連中はフィルムを持ち込むのさ。あんたには、ああいう写真を撮る人間の気持か解ってないんだよ」
「そう、たぶんな。あした写真を取りに来るよ」
私は車に戻って、五時前に西新宿のはずれにある事務所に帰り着いた。雨は霧雨になり、まもなくあがる気配を見せていたが、あたりはすっかり暗くなっていた。
「一人の信頼すべき人間が典型的なアル中になる過程を、私は見届けることになった。そうなるのに酒の量は大して必要ではなかった----七年前のある夜、彼と私は何かのはずみで禁酒を誓い合った。実にくだらない誓いだった。どちらか言い出しだのかも憶えていない。その夜以来、彼は少なくとも私の前では一滴の酒も飲まなくなったし、私も人前では酒を飲まなくなった----それだけのことです」
「わたしはお客さんにお酒を飲ませる商売で二十年も生きて来たのよ。悲惨な話ならほかにいくらでも知っているわ」
私は微笑した。「不幸な人間のチャンピオンを決めようと言うのではないのです。端で見ると意味のない習慣にも、なにがしかの理由はあるということです」
「そうね。でも、わたしはアル中なんかじゃありませんから、ご心配は無用よ。付き合ってくれても、あなたに変な罪悪感を与えたりはしないわ」彼女はグラスの中身を半分ほどあおって、顔をしかめた。
「私が何かを心配しているとすれば、むしろ自分が誰かの前でアル中になることを、だと思う。だから、一人で飲む」
「そんなことは、わたしの知ったことじゃないわ」
「共にグラスを傾け合う----洒落た科白だが所詮はそういうことです。誰かがアル中になるのを防ぐことはできない。誰かがアル中になるのに手を貸すのは実に簡単なのに」
「何だか、折角の酒がまずくなって来たわ」彼女はグラスをテーブルに戻した。
「人を肴に飲む酒はそんなものです」と、私は言った。
彼女は苦笑した。
「誰かも言っているように、答えは必ずどこかに隠されているというのが現代人の信仰で、自分だけがそれを知らないのではないかというのが現代人の不安だそうだから」
「私には、きみの言ったマーロウという男の答えがすでに一種の問いのように聞こえるんだ。彼がきみの教えてくれたような探偵なら、彼はきっと人生に答えが必要だとは考えていないのだろう」
「なるほど。答えを求めていない探偵とは不思議な話だが、そういう見方もあるのかも知れない。どうしても答えを知りたがるのは、子供か子供っぽい人間というわけですか」
「答えというのは、正しい答えほど実は煩雑な条件付きのはずで、普通信じられているようには答えとしての機能を果たさないものじゃないのかね。彼のような男は、そんなものには何の興味もわかないのだろう」
「重要なのは、より良く、より的確に問うこと、なのかな」
[そんなもっともらしいことじゃないさ。さっきの科白だが、私のように人生の折り返し点にさしかかった人間なら誰しも、“きびしくなれなかったら生きてこられなかったろう。やさしくなれなかったら、生きる資格はないだろう……”という、誰に確かめようもない問いを心に抱いているものだ。問いと言っておかしければ、一種の感慨のようものかな----多少、恥ずかしげな、照れ気味の」
「三十二才のぼくには、まだ理解できない心境ですよ」と、佐伯が言った。
「最初に。“男は……”ときみは言ったか、もしそれが本当なら、その部分はあまり信用できないな。そういう感慨には男も女もないはずだ。一人前の女なら、やはりきびしくやさしく生きている」
「そう言われてみると……そう、おそらく。“男は……”というのは、誰かが勝手に付け足したもので、もとは単に彼自身がそうだと言う科白にすぎなかったようだ」
私はポケットをさぐってタバコを取り出し、客が忘れていった使い捨てのライターで火をつけた。
佐伯がすこしためらいがちに言った。
「マーロウとあなたが似ていると言うつもりはありませんが、でも少なくとも、あなたたちにはいくつかの共通点かあるように思う」
「私は、新聞の第一面に晴れがましい顔で写真に写っている人間とも一つや二つは共通点があるはずだし、新聞の三面記事でうつむき加減で写真を撮られて人間にはもっと共通点があるに違いないよ」
『 そして夜は甦る/原尞/ハヤカワ文庫JA 』
『ハヤカワミステリマガジン/2023年9月号』は、「特集 追悼 原尞1946-2023」だった。
作家原尞がこの5月、惜しまれつつ亡くなった。享年76
1988年 長編「そして夜は甦る」
1989年 第2作「私が殺した少女」
1995年 第3作「さらば長き眠り」
2004年 第4作「愚か者死すべし」
2018年 遺作となった第5作「それまでの明日」
日本ハードボイルド小説史に大きな足跡を残した“伝説の男”を偲び、
本特集をもって哀悼の意を表す。
本特集に寄せられた追悼文のなかで、東京新聞記者臼井康兆氏の「アウトローの生き方教わった」に、ぼくも同じ思いを感じました。
「沢崎」のように身を低くして生きたい。矜持を保ち、人の情を大切にして…………。アウトローの生き方を、原さんに教わった思いがする。
ハヤカワミステリマガジンの追悼特集を読んでいたら、もう一度、西新宿の探偵沢崎の話が聞きたくなりました。
そこで、第1作「そして夜は甦る」から、順次、読み直してみることにしました。
35年前に読んだミステリ。内容、結末、果たして覚えているか? 確認しながら、楽しく読み返したのですが、あらら、よく覚えていません。
時々、記憶の底から浮上!ふわ~うっすらと、浮き上がってくるのですが。
これは、大変に楽しい体験でした。
私は椅子のところまで引き返した。「あなたのご主人を捜しているのは、ここにいる皆さんだけではないようです。昨日、韮塚弁護士から電話がある少し前に、ある人物が私の事務所を訪ねて来て、やはり佐伯氏のことを質問した。佐伯氏がルポーライターであることは、その人物の口から聞いて知っていたのです。佐伯直樹を知っていると答えるのはいささか抵抗があったが、知らないと答えるのも似たようなものでした」
三人の顔に同じ疑問が浮かんだ。それを口にしたのは名緒子たった。「佐伯を捜している人物とおっしゃるのはどなたですか」
「それはお答えできない……その人物は、私の依頼人なのです」確かに、私のデスクの引き出しには、あの男から預かった二十万円か入っている。それにしても、最近どうも嘘すれすれの発言が多くなった。注意しないと癖になりそうだ。
「守秘義務ってわけか」と、韮塚は言って冷笑した。「法律的には、探偵にそんなものはないんだ」
「法律の世界だけがこの世界ではない」
「では、道義上の問題かね。守らなければならない秘密は守る----大いに結構。この狂ったご時世だ、探偵に道義かあっても少しもおかしくないさ」
「守りたい秘密は守る----それだけのことだ」
「韮塚君、もうそれくらいにして下さい」と、更科氏が釘をさした。相変わらず言葉は丁寧だが、効果は訓練の行き届いた犬に命令するのと同じだった。
「真実というのは、ばれない嘘のことだ----と言いますからね」更科氏はわざと俗っぽい口調で言った。
彼は頭を振った。「あたしだって旦那のことは心配してるんだぜ。フン、あしたなら何時でもいいよ。フィルムには何が写ってるんだ?」
「分かっていれば、こんなところへぼられには来ない」
「それもそうだ」彼は黄色い歯を見せて笑った。「ところで、あんたいくつになった? 左のこめかみに白いものか一本まじっているよ」
「女房をモデルにしたエロ写貞のフィルムを持ち込むような連中は、おまえのニセ盲を本当に信じているのか」
眼が見えなくても、現像や焼付けができると本気で信じているのか」
「さァ。どうだかね。そう思ってりゃ、写真を取りに来たときすました顔をしていられるのさ」
「労せずして集めたエロ写真のコレクションや、そのコピーで稼いでいることを知ったら、そういう連中も平気な顔ではいられないだろう」
写真屋は黒眼鏡越しにじっと私を見た。それから、頭を振って悲しそうに言った。「そんなことは百も承知で、連中はフィルムを持ち込むのさ。あんたには、ああいう写真を撮る人間の気持か解ってないんだよ」
「そう、たぶんな。あした写真を取りに来るよ」
私は車に戻って、五時前に西新宿のはずれにある事務所に帰り着いた。雨は霧雨になり、まもなくあがる気配を見せていたが、あたりはすっかり暗くなっていた。
「一人の信頼すべき人間が典型的なアル中になる過程を、私は見届けることになった。そうなるのに酒の量は大して必要ではなかった----七年前のある夜、彼と私は何かのはずみで禁酒を誓い合った。実にくだらない誓いだった。どちらか言い出しだのかも憶えていない。その夜以来、彼は少なくとも私の前では一滴の酒も飲まなくなったし、私も人前では酒を飲まなくなった----それだけのことです」
「わたしはお客さんにお酒を飲ませる商売で二十年も生きて来たのよ。悲惨な話ならほかにいくらでも知っているわ」
私は微笑した。「不幸な人間のチャンピオンを決めようと言うのではないのです。端で見ると意味のない習慣にも、なにがしかの理由はあるということです」
「そうね。でも、わたしはアル中なんかじゃありませんから、ご心配は無用よ。付き合ってくれても、あなたに変な罪悪感を与えたりはしないわ」彼女はグラスの中身を半分ほどあおって、顔をしかめた。
「私が何かを心配しているとすれば、むしろ自分が誰かの前でアル中になることを、だと思う。だから、一人で飲む」
「そんなことは、わたしの知ったことじゃないわ」
「共にグラスを傾け合う----洒落た科白だが所詮はそういうことです。誰かがアル中になるのを防ぐことはできない。誰かがアル中になるのに手を貸すのは実に簡単なのに」
「何だか、折角の酒がまずくなって来たわ」彼女はグラスをテーブルに戻した。
「人を肴に飲む酒はそんなものです」と、私は言った。
彼女は苦笑した。
「誰かも言っているように、答えは必ずどこかに隠されているというのが現代人の信仰で、自分だけがそれを知らないのではないかというのが現代人の不安だそうだから」
「私には、きみの言ったマーロウという男の答えがすでに一種の問いのように聞こえるんだ。彼がきみの教えてくれたような探偵なら、彼はきっと人生に答えが必要だとは考えていないのだろう」
「なるほど。答えを求めていない探偵とは不思議な話だが、そういう見方もあるのかも知れない。どうしても答えを知りたがるのは、子供か子供っぽい人間というわけですか」
「答えというのは、正しい答えほど実は煩雑な条件付きのはずで、普通信じられているようには答えとしての機能を果たさないものじゃないのかね。彼のような男は、そんなものには何の興味もわかないのだろう」
「重要なのは、より良く、より的確に問うこと、なのかな」
[そんなもっともらしいことじゃないさ。さっきの科白だが、私のように人生の折り返し点にさしかかった人間なら誰しも、“きびしくなれなかったら生きてこられなかったろう。やさしくなれなかったら、生きる資格はないだろう……”という、誰に確かめようもない問いを心に抱いているものだ。問いと言っておかしければ、一種の感慨のようものかな----多少、恥ずかしげな、照れ気味の」
「三十二才のぼくには、まだ理解できない心境ですよ」と、佐伯が言った。
「最初に。“男は……”ときみは言ったか、もしそれが本当なら、その部分はあまり信用できないな。そういう感慨には男も女もないはずだ。一人前の女なら、やはりきびしくやさしく生きている」
「そう言われてみると……そう、おそらく。“男は……”というのは、誰かが勝手に付け足したもので、もとは単に彼自身がそうだと言う科白にすぎなかったようだ」
私はポケットをさぐってタバコを取り出し、客が忘れていった使い捨てのライターで火をつけた。
佐伯がすこしためらいがちに言った。
「マーロウとあなたが似ていると言うつもりはありませんが、でも少なくとも、あなたたちにはいくつかの共通点かあるように思う」
「私は、新聞の第一面に晴れがましい顔で写真に写っている人間とも一つや二つは共通点があるはずだし、新聞の三面記事でうつむき加減で写真を撮られて人間にはもっと共通点があるに違いないよ」
『 そして夜は甦る/原尞/ハヤカワ文庫JA 』