10月30日付け、毎日新聞2面に「時代の風」として、総合研究大学院大学教授の長谷川眞理子氏が「ヒトによる貨幣の発明」~忘れられた共同の原理~を取り上げられていた。
興味深い記事だったので、メモしておく。(一部ブログ作者の言葉で書いています。内容は新聞記事を直接見てください)
そもそも貨幣とは、元々「Xを持っているが、Yは持っていない、かつ、Xは手放してもいいがYをほしいと思っている人」がその逆の考えの人と物々交換していたのを、いくつもの段階を経て、どんなものとでも交換できる抽象的な価値を持つ「貨幣」として発明されたもので、これは、人間にとって、「言葉」の次に重要な発明らしい。
しかし、その貨幣が発明されたせいで、それまで、食糧や衣服など身の回りの必需品だけを求めていたのとは格段に違う世界が広がった。
すなわち、貨幣を必要以上に集める「金の亡者」の出現である。
貯めた貨幣は何にでも交換できるため、人間関係や幸せな気分も買うことができる。
仕事をして貨幣を貯め、その貨幣の多寡によって、暮らしに差が出てくるのだ。
そうした結果、自分は貨幣を多く持っているから偉いんだと勘違いする。
本当は、食べる物、着る物、サービスを提供する者などがいないとその生活は成り立たないのに。
つまり、そうした人々への感謝を忘れて、一人で生活出来ていると勘違いしているというのだ。
そう、そこが良くないのだと思う。
興味深い記事だったので、メモしておく。(一部ブログ作者の言葉で書いています。内容は新聞記事を直接見てください)
そもそも貨幣とは、元々「Xを持っているが、Yは持っていない、かつ、Xは手放してもいいがYをほしいと思っている人」がその逆の考えの人と物々交換していたのを、いくつもの段階を経て、どんなものとでも交換できる抽象的な価値を持つ「貨幣」として発明されたもので、これは、人間にとって、「言葉」の次に重要な発明らしい。
しかし、その貨幣が発明されたせいで、それまで、食糧や衣服など身の回りの必需品だけを求めていたのとは格段に違う世界が広がった。
すなわち、貨幣を必要以上に集める「金の亡者」の出現である。
貯めた貨幣は何にでも交換できるため、人間関係や幸せな気分も買うことができる。
仕事をして貨幣を貯め、その貨幣の多寡によって、暮らしに差が出てくるのだ。
そうした結果、自分は貨幣を多く持っているから偉いんだと勘違いする。
本当は、食べる物、着る物、サービスを提供する者などがいないとその生活は成り立たないのに。
つまり、そうした人々への感謝を忘れて、一人で生活出来ていると勘違いしているというのだ。
そう、そこが良くないのだと思う。