徒然幸せ日記

作者が日常の生活で見たこと、感じたこと、感動したこと!を書いています。
特に、「幸せ」とは何かについて考えています。

この人生、この世界、きれい事では済まない

2015-05-23 15:09:49 | 日記・エッセイ・コラム
かなり連続して書いてきたが、とうとう昨日は書くことができなかった。
今日も、書くことに悩んでいる。

そこで、今日雑誌を捨てようと整理していたら、昔、読んだ記事が出てきたので、書き留めておくことにする。
雑誌は、平成25年2月23日発行の「週刊現代」(講談社)であり、私が当時読んで、気になった記事はP58から書かれている、曾野綾子さんに取材した記事である。(この頃、「いじめ」が問題になっていた。)
タイトルの言葉は曾野綾子さんの主張を要約した雑誌記者の言葉だ。

この記事で曾野綾子さんは、
「人間というものはそんなにきれいな存在ではなく、誰の中にもいじめを楽しいと感じてしまう「悪」があることを認識することから始めないといけない」
「それを人間だけが持っている「理性」でいかにコントロールするかを訓練するのが教育なのだと。」

私も、たぶんそうなのだと思う。
どんな凶悪犯にも「善の部分」がある代わりに、どんな善人のように見える人にも「悪の部分」があるだろう。
そうでない人は神や仏だけか?

だから、曾野綾子さんは何を言いたいのかというと、「いじめ」をするのは誰の責任か?ということ。

世間では、親や教師や社会やと色々言うが、曾野綾子さんが考えるには、

本人の責任1/2
親の責任 1/4
教師の責任1/8
社会の責任1/8

くらいではないか!?と

だから、どんな状況においても、やはり「自分」の意思を強く持って、「悪いことは悪い」「良いことは良い」と言えるような「勇気」がないとだめだということ。(私の解釈が間違っていたらごめんなさい)
そのためには、気力と体力を鍛える努力をすること。


性善説や性悪説とも絡んで、教育というものの本質に関わる難しい問題である。(キリスト教はどうも性悪説にたっているらしい。)

曾野綾子さんの考えは、貧困や戦争が世界のあちこちで頻繁に発生する現実の世界を目の当たりにされたことから発せられている言葉だと考える。
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