ここのコーヒーは何処よりもうまいと想う。少し高いけど爽やかで癖が無い。
どうだい数学と物理学は同じな物かな?
Sー たぶん聴いている事は、物理と数学は同じことをやっているのか?と言うことだね?
確かに同じように見えるのは無理もない。言葉より数式を使うしね。でもね、少し違うと思うんだ。数学と云うのは刃物研ぎ屋だと思うんだ。数学屋はその手にした刃物を究極まで研いでいる。研いでも研いでも奥底は深く切りがない、その時点では研いだ物が何に使うか、使われるのかは、分からない新しい新型の刃物(新しい分野)さえも創り出して、それを一心に研いでいる、それをしているのが数学屋という人だと想う。物理屋の方はその刃物を使い、自然の未知の現象を切り開く仕事だね。だから数学の成果は飽く迄も道具だ。それが違いと言えば謂える。刃物(道具)が無ければ家は建たない、でも、鑿、鉋、鋸、を一心に作る人と、それを使って家を建てる人がいるんだ。数学の定理と物理の法則は、本質的に異なっているからね。力の法則や重力の法則は、物理の法則で有っても数学の定理とは違うからね。この差は面白いんだ。新しい刃物(位相幾何学という分野は古代には無かった)を作る際に、発想が生かされる。その発想には外的世界や物理は大いに貢献しているとおもう。大体が数学の起源は、暮しの切実な問題であったから、大抵は応用数学と謂える。幾何だって、代数だって、発端は面積の問題や、獲物の分け方の問題から始まったからね。
N- 確かに違うな云われてみればそうだ(笑)。刃物研ぎか?、そうかも知れないでも奇怪だな。真夜中に額に鉢巻して蝋燭を二本挟んで、蝋燭の光で一心に刀を研いでいる。これは怪談じみているよね(笑)。文学でも怪談作品は多くあるが、でもね、文学作品というのは大抵は他者との交流に関係している。嫉妬とか、妬み愛憎とか、恨み、恋慕とか、無常感とか、死生観とか、でも大方は人間世界の枠を超えることは無い。ところが数学という物は人間世界とは、あまり関係ないと云う超然としている風にみえるが、そこが違うんだよな。
Sー 数学屋が超然としている事なんか無いよ。それは一種の偏った見方です。数学は情緒の現われだ!と、云うた人も居るからね。実際、心穏やかではなく気が狂って仕舞った人も大勢います。超然として居るのならば気が狂う事など無いでしょうよ?。集合論で有名なG・カントールがそうでした、人生の最後を何で精神病院でむかえたのかは分からない、気苦労でそうなったか?鬱病なのか精神分裂病なのか。解らないけど、そんな人も居ますからね。
Nー なんで定理や方法が役に立つんだろうね?世に数学が無かったら、つまり比喩的な刃物が無かったら、文明なんか出来ないんじゃないかな。言葉が無ければ知識・記録の蓄積は駄目だろう?、若しも、技術、知識、を記録する言葉が無ければ、生まれて来た人間は、いつも最初の一歩から始めなければならないから智慧の蓄積が出来ない。そうすると飛躍した改善改良が出来ないから大した進展がない。でも、言葉だけじゃ科学は産まれない。
S- 直ぐ説明できるほど、自分も何故か分からないけれども、数学が役に立つ事はある程度確かなんです。果てな?、では何で?と謂われれば、たぶん物事の関係性を、もう議論の余地がないほど明快に、それは直截に、最短に、論理に、より最小に纏めた物が数学と云われている物じゃないかな?、これは、何か未知の関係性を分かろうとする時に、または推察・判断の時に役に立つ。それには数とその関係を表わす数式が好い。確かに役に立つ。そこには言葉とは異なった性質がある。それは大いに考えてみたい重要な部分だよね。数学の始まりは幾何学図形だって云う言い伝えがあるが、では幾何学だけが数学ではないよ、代数だって数学だ、物を数えるという演算の事だが、こう行った風に、生活に密着して出て来た智慧の技法という物が数学ではないかな?。例えばエラトステネスは三角法だけで地球の周長を、古代としては可なり精度の好い数値を出しているし、アリスタルコスは月食の観察から地球と月の大きさに比を、良い精度で導き出している。驚くことはアリスタルコスが地球から太陽までの距離を三角法をつかって出している事だ。この人の頭は、多分、今の自分達より先を行っていると思うんだがね。三角法は高校を卒業して居れば誰でも知っている。その知って居る筈の三角法を使って、エラトステネスは大地の距離を測り、アリスタルコスは月の円周を計った。そして地球と月の大きさ、詰り体積の比を出している。更にアリスタルコスは地球から太陽までの距離を三角法を使い計算している。僅かな角度であるから、その距離は誤差が大きかったが、実は原理に於いては間違ってはいなかった。なぜ、それが彼らに出来たのだろう?、それは彼らが自分たちが立っている地面が丸い事を信じていたからだ。物が下に落ちることは知ってはいたが、物には互いにその質量に応じて引き合う力を概念化出来なかった。
問題を整理してみょう。数学とは「関係性」を追求する技法だ。他のあらゆる科学は、その技法を使って物事を解剖する。たとえば鉱山から金が取れるが、その出現の仕方が主マンガン鉱石の窪みに糸のような形で純金の絡みついている。今のところ何故、この様な形で存在するのかを説明できる人は居ない。おそらくは、この様な出現の仕方にも、大それた表現を使えば「存在の理法」がある。存在の理法とは、むかし湯川秀樹が書いた小冊子本のタイトルだった。その様に「数学は関係性を追求する技法」と、云うことが出来る。それは思考概念を解剖する事だ。古来から幾何とは形を解剖することで、丸とか三角とか四角とかの固有の形を追求し、また「その関係性」を追求することです。それらの個別の解剖から「面積」とか「体積」とかが出て来て、最終的には円と球が究極の対象となる。結果が定理とか公式とかに成り、他の自然科学に役立つ。例えば幾何では、固有の形が、代数では数の操作と演算の概念が、解剖される。幾何では古来からユークリッド幾何学が不動の地位を占めて来た。誰が見ても経験に裏付けられた幾何学です、その正当性には誰も文句は言わない。しかし18世紀にこの不動の地位を占めていたユークリッド幾何学の平行線公準を破る、非ユークリッド幾何学が出現した。双曲幾何と楕円幾何です。更に別な淵源には18世紀に在るが、20世紀に成って柔らかい幾何学とでも称する位相幾何学が出て来た。これは硬いユークリッド幾何学に替わる飛躍です。謂わば物体に穴(位数)が幾つ有るかどうかが基準に成る変形自在の幾何です。
N ー ああ、君が言っていることは、何かを知るとは最も「思考の枠組みに成る原則」を知らなければ、技法を知っていても駄目なんだな。この場合の原則は「地球は丸い」という事だ。
S ー そうなんです。常識的に考えて生活感から言えば、地面は平らです。地球から離れない限り丸いとは認識できない。しかし、空に出ている月は、それを見て、誰も丸い球体である事を知って居る、だが、自分の立っているこの地面が丸いとは思えないんです。この地球は特別だと思っている。だがアリスタルコス達は、もしかすると、自分の立っているこの地面も球体ではないのか?と感じたわけです。人間の世界観という物は身近な経験から構成されている。人間という寸法に比べて地球はべら棒に巨大ですから、世界は平らだというのは好く分かる。だが、想像力という物は日常観から離れる事です。我々の地面も球体である事が分れば、三角法の応用で球体の円周を計算できるし、月と地球の大きさの比を出せる。そうすると世界は、太陽を中心として、各球体がその周りを回り、その球体の周りを衛星が回っている事に気が付く。大まかですが、この辺までは古代ギリシャには分かって居た。太陽ではなく地球中心説のプトレマイオスの説も並行で出て来ている。太陽中心説が葬り去られたのは、キリスト教の拡大が原因ですね。永い間、天と地の妄想に支配されて居たのです。
科学とは、常識を壊す事です、新たな思考の枠組みを創り出す事です。そして一度、確立された物理や化学や生物学や遺伝学の常識も、つまり一時的な見解に過ぎないのです。必ずその可能性が在ると言うことです。定説と言う物は乗り越えられる為にある。それが一見どんなに不動の地位に在ろうともです。この辺が他のあらゆる学問言説と異なるところです。物理では一度確立された常識は永い期間続きます。一週間ごとに物理学の常識が変わるということは余り見られないが、それでも何十年か毎には変わるのです。思考の自由性、思想の自由性、が尊重されねばならない。支配的な思想と反する物を持って居たという理由だけで迫害される事は止めにしたい。永い間、宗教と言う物は人間を統括するための強力な方法でした。特に、マルクス教とか一神教は人を牢獄に閉じ込めましたからね。
生きていて人に出会うという事は奇跡的な事です。二度と会えることが無いので奇跡的な事なのです。普段は、私達はそのことを自覚して居ません。でもこの瞬間は二度と無いといえる。例えば大好きだった人や生き物と別れた時の事など、その思いが強いです。
N ー 何だか数学の事を聴いている内に定義から始まって、奇妙な道に出て仕舞った感じがするが、謂おうとしている事はわかるよ、数学は高価な道具立てが要らないから、安価で出来る感じがするが奥が深い。最近の物理は実験に数十億、数百億の財源が要るよね。それは分子レベルの生物学である分子遺伝学でも同様だ。その点数学は紙と鉛筆が道具立てだから、本当は誰でもできるはずだが、その筈がそれが誰でもできない。
S ー 確かに紙と鉛筆だが、でもそれは過程や結果を記録する為の物で、本体は頭の中の思考に在る。関係性を追求するのに、大それた道具立ては要らないが、だが最近では、超高速電子計算機が思考結果の確認に応用される事も有るみたいだよ。だから昔の状況とはすこし違ってきているけど本質的な違いではないがね。計算して予想がどこまで正確かを確認する。紙と鉛筆の線は変わらないけど、周りの道具立ては少し変わると想う。関係性と言う性質とか概念は、人の使う言葉から変化した物かも知れない、形式上言葉と数学は一見違うと見えるのだがどうも本質は似ている気がする。例えば素粒子論でも初めは何もない世界から始まったという方が事実に近い。どんな構成子も、それなりの必然性の結果だ。永く存在期間を持つ陽子が、なぜみんな同じ顔をしているか知って居ますか?これは存在の謎を解くカギとなる。
N ー 珈琲が冷えちゃったよ。
S ー好いんだよ、無駄話する為に此処に居るんだから、席料みたいなもんだ。それに他の客が居ないから、大声出して喋れるのが好い。此処にホワイトボードでもあると好いんだが、そりゃ無理な注文か。
N ー 大風呂敷でも好いから、人間の文化が始まって以来の科学の歴史を概観して呉れないか。勿論、数学から始めて欲しいけど。
S ー そりゃ矢張り人間の脳の進歩が影響して居るだろう。声帯を振動させて音声を出すことが出来る動物はたくさん居るけど、その音を系統的に使って何かを説明する動物は人間だけです。3歳児の程度から非常に高等な言説まで、幅は広いけど基本的には同じ機能を使っている。その様な言葉の機能は永い期間を通じてより精緻に成って来た。そして、言葉とは対極にあるのが謂わば音楽と呼ばれているものだね。音楽は言葉ではないが、気分と云うか旋律が気持ち好い、それに音楽は感じ方だから説明が要らない。君だって音楽は好きだろう?、勿論、僕も好きだ。何でも聴くね。邦楽、西洋音楽、琴、太鼓、胡弓、三味線、篳篥、縦笛、尺八、バイオリン、チェロ、フルート、竪琴、ギター、オルガン、ピアノ、大きなところではパイプオルガンなど。気に入った曲は何度でも聞くよ。
N ー ほら、むかし流行ったフォークソングなんかも聴いたな~、懐かしい。今でもレコードを持ってるよ、大きなスピーカーでね、CD4とか謂う物を買ったよ。交響曲なんか、このCD4の物で聴くと、楽器が何処から響いてくるか分かるんだ。バイオリンは左側から中央奥にはクラリネットとかね。いまはデスクで手軽だが、針を落とすレコードほど深み奥行きが無い。音が平板なんだよ。これ聴いた事の無い人には解らない。
S ー そうだった、昔はこんな喫茶店でも、凄いオーデオが有って、店主がマニアでね、客が曲をリクエストすると、客に響きが好いでしょう?なんて聞くんだ。いま当時の喫茶店の雰囲気を持つ所ってあるの?
N ー 探せば幾らかは在るだろう。
S ー さて、根源について観察してみょう。古代から現代まで幾何は数学の主用なものだった。幾何と数論、だった。数論は数とその関係について究める物だった。自然数と言った言い方があるが、もっと根源的に見て見ると、数はあるかないか、の何れかです。つまり、1か0です。それが基本です。一番簡単と想われている自然数列は1を操作したものです。2は1に1を加えた物、3は1に1を加え更に1を加えた物。こうしてみると数列はこんな風に表現すると実に煩瑣な物に成り、使いずらい事この上ない。この改良をして来たのが数学で、それは演算の手法を確立しました。日常普通に使うのは基本的には+、-、×、÷、です。小学校低学年の頃に学びます。でも、この四則の機能と四則同志の関係は学びませんでしたし、この演算上の数の拡張に付いても学びませんでした。算数というと計算です。計算することが算数でした。あとで数学に付いて学ぶと、もちろん計算は有りますが、それは主要な物では有りません。では何が目的か?というと、演算なら「演算自体の性質の解明」です。本来は、その様な物を学びます。数学とはそういうものです。当たり前すぎて、その根底を深く掘るという事は、現代では余りしません。四則など誰でも知って居ると想っています。でも果たして、そうでしょうか?
自然数はポツンポツンとある離散的な物です。連続ではない。それは一に一を加える事で成立するような飛び飛びの数列です。つまり言おうとしていることは、数という概念の基本である、存在とその変化に起因する形態です。それを定義しょうとしているわけ。哲学的な観点からすれば数は謂わば存在の最も基礎的な形態です。つまり存在(1)か無(0)です。このくらいの基底の底辺の概念だと、此れはコトバと観念上のつながりがある。謂わばコトバも演算なのです。驚きましたか?、でも、何も奇異なことを言って居る訳では有りません。フレーゲの概念文字は言葉に通じた思考演算の解剖なのです。
N ー 何だか、言っている事がよく解らないんだけど?、それ数理論理学の事だね。数学基礎論というやつだ。あのね、今の日本に数学を専門に研究している人はどの位居るんだろう。それは皆、数学関係で職を得ている人達なんだろうか?数学の研究で食べている人って。
S ー さあ考えた事も無いが、日本には5・6千人は居るのでは無いかな。理学部で数学科がある所では、講座の数や所帯にもよるが講座が10有れば、一講座の人数は8人ぐらい、講座が10有れば80人の教員の所帯に成る。数学科の有るところは100大學としてザッと8000人が数学関係で職を得ている事になる。でも感覚的に言えばそんなに居ない。
N ー それは多すぎるのでは?、数学を研究して税金で給与を貰っているにしてはね。確かに19世紀20世紀に数学関連の業績は高まっている事は雑誌でも議論の有るところだ。価値ある論文の発表を業績と謂うのだろうけど、価値ある論文なんて、そんなに有る筈がないでは?、重箱の隅を突っつく様な論文で業績にしているのでは?。それに世界中の人数を数えれば、もう10万人くらいになるでしょう。確かにこの300年は数学の進歩が対数級数的だ、でも研究者の人数が多いから進歩する訳でもないだろう。
S ー えらく辛らつだね。確かに90%の人は創造的な仕事をして居ないと想う。でも不必要かと云えば、そうではない。ほんとうに研究したい人が居て、椅子が無いならば、何か仕事をしながら自分の道を進めばいいと云うんだろう。そうだね、その通りだ、むかし物理学者Einsteinは灯台守などを遣りながら、研究を進めればいいという様なことを書いていたが、ああいう変わった人にはできるが、普通の人間には無理だろう。数学も物理でも理論系の人には大した道具立ては要らない。まあ紙と鉛筆。勿論それだけじゃないけどね。でも、何も大學に席が無くても研究は出来る。それは確かだな。習うつまりLearningの場合は、高校、大學、で正式な過程を踏んだ方が効率的だ。なんの過程を踏まずに研究の最前線にでるには、これは永い時間が掛かるし進歩は少しづつしか進まない。そう言う過程を踏まなくても、ある程度大成できるとしたら、もちろんラマヌジャンのような本当の意味での天才しか出来ない曲芸だと想う。若しも、ラマヌジャンが大學の数学科という正式の教程を踏んで居たら、もちろん一流になっていたが、超一流であんな途轍もない数学者には成れなかったろう。一般的な予想だ。本当は埋もれて仕舞う筈だったラマヌジャンを、埋もれさせなかったのがハーディだった。一本の手紙が巨像をこの世界に知らしめた。インド人だって90歳まで生きるひとは居るのだから、惜しい人だったね。もう少し長生きして呉れれば、現代が未だ知らない扉を開いてくれただろう。なにか自分の好きな事をやって居て、税金で食って居るのは心苦しいと想う人も居る。変わった人は面白い、僕は変わった人が好きなんだ、変わった人は何でも出来る秀才ではない。関心領域も歪なんだよね。例えばEinsteinは歴史とかギリシャ語とかラテン語とかが全くダメだった。数学が辛うじて良い、全体的には劣等生レベルです。だいたい6歳くらいまで言葉が話せなかった。たぶん親は心配したろう。日本じゃこういう人はダメだろう。埋もれて仕舞うよ。Lオイラーという人はラマヌジャンに似ている。逆か、ラマヌジャンがオイラーに似ている。日本にも岡潔が居るではないか。どうも創造性は何かが欠けている代償の様な気がするんだ。大秀才に創造性が欠けていると言っている訳じゃないよ。でも彼らの場合は創造性の次元が違う。
N ー それって芸術家の場合にも言えるんかな?特に音楽なんかはそんな面がある気がする。西洋音楽と和楽では多少異なるとは思うが、これは感受性の差、表現形態の差、なんだろう。
S ー L・オイラーのような創造的職人ではない人は、他人の業績の再解釈しかない。或いは精々のところ定理の拡張だ。拡張が出来るという事はまた別な意味では凄い事だとは思うが、飽く迄もOriginalなものではないよね。再解釈と言うと、自分の言葉を探してくる他ない。他人の言葉じゃ駄目なんだ。自分が感じた言葉じゃなくちゃダメです。人間が違う様に物事を感じる範囲は異なるので、異種のアイデアは、そんなところから生まれる。コトバを探すのは創造的な行為です。
N ー もっとも基本的な所から、始めようよ。
たぶん幾何学は人間が最初に出会った数学では無いかな?、古代数学史では幾何学の初期形態が残っている物として、Egypt文明の成果だと謂う。ナイルの氾濫で土地の所有が滅茶苦茶になり、氾濫以前の耕作地の面積を確保したいと言う所から、以前の面積が分かって居るので、その面積と同じ耕地を全体の耕作者が分け合う。そんな所から小学生が習う三平方の定理が出来たと書いてある。ピュタゴラスの定理として名図けられて居るが、別にピュタゴラスが最初に発見した訳じゃない。で、この幾何学という分野は視覚が中心になる分野だろう。幾何学と視力、視覚、は密接に結びついていると思う。視覚が無かったら幾何学は成立しないどころか存在しないのでは無いかな?。
S ー 視覚と幾何学か?、視覚が無いと幾何学は存在しない?か。それって同じ類推で、ことばが無いとこころは存在しない。という物が成り立つかな?(笑)、まあ、それは後の話の種として残して置くとして。
確かに視覚と言う物は理解の根拠として絶対的なものだ、それは謂える。いま三平方の定理について話しているので、視覚と密接に関連している事は認めます。或る意味でこれ程明快なものは無い。直角三角形の三辺ABCの長さの二乗に関する定理だ。これは最近話題になったフェルマーの定理の下敷きともなった。定理自体は簡単な物だが視覚が無いとこの定理はどう理解するのだろう。視覚を損傷した数学者という人も居てソ連の有名な数学者でポントリャーギンという人が居る。この人は少年の頃に事故で全盲になって仕舞った。彼の場合は最初から全盲では無いから参考には成らないかも知れないが、視覚が生れながらに障害のある方は、幾何学が理解できないという話なんだね。これ難しい、若しも自分が全盲で、三平方の定理をどう理解するか?、を想像してみると、掛け算の二乗は解る、だがABCが表わす長さをどう理解するのだろうか?。考えてみましょう。若しも生まれながらに視力が欠損して居たら、彼は果たして、距離、物の長さを認識することが出来るのだろうか?いいかい、この問題は奥行きが深い、何か不思議な気がするんだ。それはね数学に於ける視覚とは何なのか?という深い重要な事なんだ。空気の振動を音として聴覚が受信する、言葉よりも視覚は根源的に重要だ、なぜなら世界の様相は視覚をもってして理解できるからだ。自覚意識とは何なんだろう?。本当に知るとは何なんだろう?、なんか難しい問題に出くわしたな。
それから、もう少し言って置きたい事がある。
それは大自然には、おおまかな法則性が在るということだ。敢えて言えば、それが自然の意思ということだろう。自然が持つ強固な道理のことです。通常の現象界は引力と電磁気力で説明が付く、もちろん、それで説明が付かない「何か」が、あることは百も承知だ。だが人間の長さ的スケールの現象では一応納得できる答えがでる。そう云う事は、我々人間も含めた生物体、生命体は自然の意思で創られ動いている。
だが究極の構成体まで行くと別の力が現れる。基本的素粒子(クオークとレプトン)の間には別の原理に因る力が現れる。引力も電磁気力も実のところ未だ謎なのだ。電荷は+と-があるが、磁気はNとSは繋がって居て単一では現れない。方程式の解からは磁気単極子(モノポール)は有る事に成っているが、まだ発見されていない。それに物の重さと慣性質量が同じってどういうこと?
生物の機能こそ最高の芸術品だよ。
ことばと文字の関係、特に文字の発明が人間を飛躍させた。動物はみな言葉を持って居る、否、動物だけでなく虫も鳥もコトバをもっている。うれしいよね、そういう生き物と出会えるこの世の中は! ぼくは父にも母にも十分な孝行が出来なかったが、せめて僕を愛し育ててくれた父母を含めた、僕の後ろに連なるご先祖にいつも感謝している。太陽系とわれわれの一切は、実はつよい力でつながっている。それは例えでは無くて本当に小さな虫一匹も私達と兄弟なのだよ。いのち一切を育ててくれる植物こそが、命の母であり父だ。「群盲象を撫でる」という諺が好きだ、我々は巨大な対象に対して、確かに一部は正確につかんでいるかも知れないが、全体像は凡そしらない。本当の智慧と言う物は謙虚さなんだ。我々の知って居るのは、尻尾の一部であり足の一部に過ぎない。
N ー まったく君の大風呂敷には呆れるほど感心するよ(笑)、数学が得意な君としては矢張り森羅万象が興味の対象なんだろうな。この世界は応用数学には絶好の対象であり現象だからな。呆れたね丸で哲学者みたいだ。(笑)、今時珍しい奇人だな。