目の前に起きる歴史的現実が何故そうなるのか分からない事が多い。多分それは、実は隠れた見えない構図が在る為に、問題の淵源を中々把握できない故に起きる錯誤であろう。日本の現代史は、まあ色々な見解もあるがペリーの恫喝外交に始まると言っても拒否する人は少ない。それ以前の歴史的経緯はすべて国内の事情であった。平家の隆盛も、鎌倉幕府の成立も、足利将軍義満の野望も、信長・秀吉の栄華も、徳川政権の成立もすべては国内の騒動である。だが嘉永6年(1953年)からの騒動はそれ以前のどれとも違った。日本文明は元寇以来、初めて海外の脅威に遭遇したのである。この脅威がどんなものであったかはその後の歴史的事実が証明している。1856年(嘉永3年)から、怒涛の様な一種の激震が始まり、徳川幕府が崩壊したのは、ペリーの砲艦外交から明治まで、僅か15年の期間しかない。徳川の世が、およそ260年間続いた事を考えに入れれば、この15年間の体制崩壊の時間が余りにも僅かであり、その怒涛を誰しも感じられることであろう。そこには多くの事件が在ったが、それは歴史の本質に於いては挿話でしかない。阿部老中の死と井伊直弼の登場、尊王攘夷、そして安政の大獄、桜田門外の変、和宮様のお輿入れ、坂下門外の変、第二次長州征伐、孝明天皇の薨去、天狗党の変、農民一揆、戊申の役、連続した多くの事件が過ぎ去って行く。本来、江戸幕府、江戸時代とは何であったのか? そして明治とは何であったのか?。現代史の根拠を解くには、もう一度この時代の事実と策謀を検証してみる必要があるのではなかろうか。
第一に中世も近代も現代も歳月時間の経緯では繋がっているという事だ。江戸時代はは、その中期から外国船の出没に因って、大きく幕府の政策が動揺している。国内的には石高制の米経済から、将来は商業資本の充実を図って、幕府財政の赤字体質を改善しょうとしていた目論見と共に、北海道の開発を進め新たな産業を興そうとしていた田沼意次の政策は、時代の将来の趨勢を見ていたと思うが、結果的には幕府創設時の本来の米経済の状態に戻そうとした、松平定信のクーデターに因って失脚させられている。せっかく重商主義にもって行こうとした政策はここで頓挫している。江戸時代の中期以降は幕府に限らず、侍層は経済的疲弊が進むばかりで、一向に改善の兆しは見えなかったのである。様々な問題の数は限りないのだが、余りにも長くなる為に、ここでは明治以降の歴史的状況を知る事にしたい。
とにかく250年続いた徳川体制は、1968年の9月の明治元年を以って明治の体制に変更された時点で終わりを告げた。明治政府は幕藩体制を一刻も早く解体して、新たな天皇を中心とする体制に変えたかった。地租改正、廃藩置県、戸籍の常設、身分制の廃止、富国強兵、脱亜西欧、学制の発布、尋常小学校、高等科、中学校令、高等中学、帝国大学、陸軍、海軍の創設、産業の育成、議会の開催、帝国憲法の制定、等々、その政策は驚くほど矢継ぎ早である。勿論、現代と江戸時代は風習や価値観で繋がっていた面もある。
幕藩体制を19世紀半ば以降から20世紀にかけて、西欧で起きた一種の進歩史観(共産主義)の日本浸透が顕著である。それは日本の開国と同時に見えない形で流入し、やがて機械工業的資本主義の発達と共に帝国主義と云う趨勢に変化させられてゆく。19世紀半ばに軍事的圧力に因って開国をさせられた日本国は、攻撃的な西欧の侵略的植民地主義を習い、必然的に帝国主義的植民地主義を模索する事に成る。富国強兵は日本が征服されことを防ぐ、ほとんど唯一の訪欧論であった。20世紀にはいるとその趨勢はますます激烈化して地下に浸透してゆく。所謂、共産主義である、歴史には進歩があるとする考え方は、人間は進歩するのだというUtopiaと共に、当時の欧化主義のインテリ層に受け入れやすかった。それは現在の日本国にも相当深い刷り込みによって日常化している。為に次第に浸透して、それは社会の不穏化・混乱化を促進してい行く。共産主義の進歩史観自体が、進化論を応用した疑似科学の衣装を纏って居ただけに、法則性・合理性を好む西欧的知識を信奉する日本の知識階級には事の外受け入れやすかったという現象がある。共産主義は現実とは全く別の空想性、つまりUtopia思想に近い物である。一般に宗教は常にこの種のUtopiaを提示して布教するためにその被害は今でも著しい。戒律とは人の倫理を促進し自己を律するだけならば好いのが、それはやがて人を縛る独裁に変質するのが通常の変遷であ。共産主義もUtopia思想の変種であり、一種の宗教であることには違いない。必ず歴史的背景には、その原動力となる力の源泉が在る。歴史を辿れば、日本の開国はその様な勢力との初めての接触であった。
彼らは不思議の国、日本に付いて東インド会社以来の過去の知見を基に日本社会を研究していた。道徳が徹底している事、武士政府が在りその統治者を大君と呼んだ。三百近くの自治領(藩)に分かれていて、徳川家という大大名が統括して幕府を形作っている。各藩は土地から上がる米と云う年貢で藩政を運営し、徳川幕府の創設以来、武士政権である徳川の治世は時代が進むにつれて次第に困窮化し、120年ほど経った享保年間には大々的な改革を断行したが失敗した。それ以後は寛政・天保と当時の為政者が世の流れを変えようと施策を断行しても、結局上手くは行かなかった。私見であるが江戸時代の中期以降は、近世・近代なのだと思う。石高制の下に米経済と云ういわば物納構造に依拠しては居たが、大都市である大阪・京都、そして江戸では手工業が発達し、大々的に従業員を雇い大量生産するとまではいかないが、それでも経済的手法は驚くほど発達していた。札差は先物取引もおこなったし商品経済を通じて大資本が形成された。商売の手法にも因るが呉服商、材木商、絹木綿商などで何万両もの資本を動かす大資本が生まれてきている。江戸時代は侍の政府であるから、彼らの存率の原則である主従関係の封建的秩序を壊す訳には行かなかったのであろう。嘉永の最後の年である嘉永六年(1853年)にアメリカ艦隊に因る開国要求が無かったならば、江戸御幕府はおおそらくあと100年は続いたと思う。1853年から明治の代が出現するまでの期間はわずか15年でしかない。如何にこの期間が激動の時代であったかを証明するものであろう。
第一に中世も近代も現代も歳月時間の経緯では繋がっているという事だ。江戸時代はは、その中期から外国船の出没に因って、大きく幕府の政策が動揺している。国内的には石高制の米経済から、将来は商業資本の充実を図って、幕府財政の赤字体質を改善しょうとしていた目論見と共に、北海道の開発を進め新たな産業を興そうとしていた田沼意次の政策は、時代の将来の趨勢を見ていたと思うが、結果的には幕府創設時の本来の米経済の状態に戻そうとした、松平定信のクーデターに因って失脚させられている。せっかく重商主義にもって行こうとした政策はここで頓挫している。江戸時代の中期以降は幕府に限らず、侍層は経済的疲弊が進むばかりで、一向に改善の兆しは見えなかったのである。様々な問題の数は限りないのだが、余りにも長くなる為に、ここでは明治以降の歴史的状況を知る事にしたい。
とにかく250年続いた徳川体制は、1968年の9月の明治元年を以って明治の体制に変更された時点で終わりを告げた。明治政府は幕藩体制を一刻も早く解体して、新たな天皇を中心とする体制に変えたかった。地租改正、廃藩置県、戸籍の常設、身分制の廃止、富国強兵、脱亜西欧、学制の発布、尋常小学校、高等科、中学校令、高等中学、帝国大学、陸軍、海軍の創設、産業の育成、議会の開催、帝国憲法の制定、等々、その政策は驚くほど矢継ぎ早である。勿論、現代と江戸時代は風習や価値観で繋がっていた面もある。
幕藩体制を19世紀半ば以降から20世紀にかけて、西欧で起きた一種の進歩史観(共産主義)の日本浸透が顕著である。それは日本の開国と同時に見えない形で流入し、やがて機械工業的資本主義の発達と共に帝国主義と云う趨勢に変化させられてゆく。19世紀半ばに軍事的圧力に因って開国をさせられた日本国は、攻撃的な西欧の侵略的植民地主義を習い、必然的に帝国主義的植民地主義を模索する事に成る。富国強兵は日本が征服されことを防ぐ、ほとんど唯一の訪欧論であった。20世紀にはいるとその趨勢はますます激烈化して地下に浸透してゆく。所謂、共産主義である、歴史には進歩があるとする考え方は、人間は進歩するのだというUtopiaと共に、当時の欧化主義のインテリ層に受け入れやすかった。それは現在の日本国にも相当深い刷り込みによって日常化している。為に次第に浸透して、それは社会の不穏化・混乱化を促進してい行く。共産主義の進歩史観自体が、進化論を応用した疑似科学の衣装を纏って居ただけに、法則性・合理性を好む西欧的知識を信奉する日本の知識階級には事の外受け入れやすかったという現象がある。共産主義は現実とは全く別の空想性、つまりUtopia思想に近い物である。一般に宗教は常にこの種のUtopiaを提示して布教するためにその被害は今でも著しい。戒律とは人の倫理を促進し自己を律するだけならば好いのが、それはやがて人を縛る独裁に変質するのが通常の変遷であ。共産主義もUtopia思想の変種であり、一種の宗教であることには違いない。必ず歴史的背景には、その原動力となる力の源泉が在る。歴史を辿れば、日本の開国はその様な勢力との初めての接触であった。
彼らは不思議の国、日本に付いて東インド会社以来の過去の知見を基に日本社会を研究していた。道徳が徹底している事、武士政府が在りその統治者を大君と呼んだ。三百近くの自治領(藩)に分かれていて、徳川家という大大名が統括して幕府を形作っている。各藩は土地から上がる米と云う年貢で藩政を運営し、徳川幕府の創設以来、武士政権である徳川の治世は時代が進むにつれて次第に困窮化し、120年ほど経った享保年間には大々的な改革を断行したが失敗した。それ以後は寛政・天保と当時の為政者が世の流れを変えようと施策を断行しても、結局上手くは行かなかった。私見であるが江戸時代の中期以降は、近世・近代なのだと思う。石高制の下に米経済と云ういわば物納構造に依拠しては居たが、大都市である大阪・京都、そして江戸では手工業が発達し、大々的に従業員を雇い大量生産するとまではいかないが、それでも経済的手法は驚くほど発達していた。札差は先物取引もおこなったし商品経済を通じて大資本が形成された。商売の手法にも因るが呉服商、材木商、絹木綿商などで何万両もの資本を動かす大資本が生まれてきている。江戸時代は侍の政府であるから、彼らの存率の原則である主従関係の封建的秩序を壊す訳には行かなかったのであろう。嘉永の最後の年である嘉永六年(1853年)にアメリカ艦隊に因る開国要求が無かったならば、江戸御幕府はおおそらくあと100年は続いたと思う。1853年から明治の代が出現するまでの期間はわずか15年でしかない。如何にこの期間が激動の時代であったかを証明するものであろう。
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