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ひとり公園を歩きながら

2019年11月28日 18時36分35秒 | 日本文化の多様性

 寒さが厳しくなり、昨夜来の雨に紅葉も散りかけていた。ひとり公園を歩くのは何か月振りだろうか?、ふと,この前公園にやって来た時を想い起してみた。乾いた落ち葉が足元を賑やかにしていた時期だ。人気のない季節だったので二月の初めだろうか。

この間に春が過ぎて、夏が過ぎて、いまは平野の秋も終わりである。
記憶の糸を辿ってみると、何か僅かなあいだに、母との別れなど

辛い事も在った為か、10年の歳月が流れたように感じる。

子供だった頃、遠い昔には、この付近は小高い丘と丘に挟まれた湿地帯で、中心部には、丘陵の終端部から湧きだした湧水が水田の灌漑用の溜池として利用されていた。池の周りには湿地帯が在り、周辺には散歩道が池の周りを囲んでいた。少し丘陵をあがるとコナラとクヌギの森林が続き、チェーホフの短編「晩に」のように篝火が焚かれ、ひっそりと暖かな会話が話されるような場所だった。

ここは県内でも有数の県立自然公園と県民一万人プールの造成時に、縄文時代初期の遺跡も発掘され、今から10000年も遠い過去に、我々の先祖の生活が在った場所でもある。沼地には牛のような大声を出す食用ガエルが住んでいて、春先には奇妙な恋の歌を歌っていた。また両生類に近い肺魚も住んでおり、冬の暖かい風のない日向では、魚なのに陸に上がり、日向ボッコをしているという変な魚だった。ひとが近づくと慌てて池に飛び込むのは面白い。カサカサと羽音を立てて落ち葉を踏みしめて、淋しい木立の道を歩む。

時々、キーッとかクワ・クワと鳴く鳥の声が聴こえて、飛来した鴨が池に打ち込まれた杭に上がり自分の毛づくろいをして居る。今年は鴨が多い、オスの鴨は緑の羽根で美しい。白鳥も飛来し、池の周りは渡り鳥で賑わいをみせている。ここは狩猟禁止区であるので鳥はそれを知って居るのか、此処に来ると安心している様子がうかがえる。向こうから80歳を越すだろうと思われる老人が歩いてきた。冬支度で森の散歩を楽しんでいるのだろうか。

何となく気持ちが爽やかに成って落ち着いてきた。人の一生には、儚さと共に悲しいことや嬉しいことも必ずある。悲しい時に思い出すのは、いつも自分を支えてくれた人達の言葉だ。もうあの人はこの世には居ないけれど、その言葉の音色はいつ迄も耳の底に残っている。忘れがたい記憶という物はたぶんそのような記憶なのだ。その声に助けられ、冷えた心が熱くなる。力を貰える。私はひとりだが、本当はひとりでは無い。今在るのは父母や祖父母、そして代々の先祖の血が私の体を廻っている。彼等は、いまの自分を見ているに違いない。池の周りを一周した。6キロほど歩く、さあ駐車場に置いてきた車で家に帰ろう。
                         
                          1999年11月の日記から

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