哲学の東北とは或る本の題名である、中沢新一か?。僕には東北はなにか鈍臭くて、それでいて強靭な深い何かがあると感じる。外面に捉われない自立の強さと詩情の豊かさがある。自分は東北に対して常にそう感じて来た。僕の生まれは北関東だが、それは或る意味では南東北である。僕は関東人であるが、こころの中では東北人である。雪に閉じ込められて耐え、春を待つ希求のひたむきな強さがある。東北には闇と光の計り難い何かがある。それは二万年を越す縄文の地霊かも知れないし、大自然のふところに暮らした、永い永い歳月の記憶が積み重なった霊的地層である。東北人は日本人の原型なのである。彼らは、一見寡黙であるが思考の中では饒舌で、時流に流されない根源的なものを求める。斎藤茂吉、棟方志功、宮沢賢治、寺山修司、思い付く名前をすこし並べて見たが、なにかここに共通項は見いだせないか?。
芸術家の大抵は一途で個性的だが、上に挙げた彼らは、非常に不器用で骨の太い主張と存在感がある。鈍臭いにも関わらす豊かな味がある、然し全くスマートではないのだ。野暮ったくて、それゆえ信頼できる。なぜなのだろうと長い間感じて来たが、これと言った説明が付かなかった。その内、もしかするとこれは人種が違うのでは無いか?とまで思った。何か東北と云うと縄文人である。それから沖縄も縄文人、日本文明は異質な物の混合か。哲学も文学も圧倒的に東北が強い。ナウマンゾウを取ってゐた人々が居る、ゾウが滅んだのが35000年前と云う、ならばその当時この列島には人が住んで居たはず。過去の歴史は中々推察し難いのである。文字記録がないのは当然の事だろうが、人々は話すばかりで話を文字で再現できないのだ。人間の文化は、火を取り扱うこと、土器を発明したこと、文字を発明したこと、で、文化の進歩度が格段に進んだ。人間の住むには温度が決定的な役割をする。当時の人々は狩りばかりしていたのでもない。栗を栽培したり柿やイチジクも作ったであろう。陸稲が縄文期には在った。
空想を逞しくすると、仮に日本人の起源が東南アジアに太古存在したというスンダランドに在ったとすると、今から5万年前以上以前、スンダランドが水没する前に、その住人は、JavaからAustraliaに出てNew ZealandからPolynesiaに広がりPolynesiaは現在は島々であるが超古代には、そこはある程度の大陸を形成していた。水没を機会に彼らは北上し日本列島と目指して船を進めた。彼らは日本列島が在るとは考えもしなかったがそこに流れ着いた。もちろんPolynesiaからと同じく、黒潮に舟をこぎ出しPhilippinesからTaiwanを経て、沖縄諸島をへて九州に来た者も居れば東京湾、鹿島灘に入った者も居たであろう。関東地方は海が深く進入し大きな内海を形成していた。そこは魚介類が豊富で、気温の温かかった当時は照葉樹林の大森林が形成されていたであろうから、将に楽園だったのだ。いつの事であったか新聞に鬼怒川中流域でクジラの化石を調査している県立博物館の記事が出ていたことがある。
*何人かの男たちが干上がった川の中でタマ石を掘り返している
通り掛りの者 ー 何をして居るんだね?
博物館の職員 ー クジラの骨を発掘しています。
通り掛りの者 - ここは川だぞ。
博物館の職員 ー ハイ、今は川です、しかし1500万年前、この場所は内海でた。それは中々信じられない事ですが、現実で確かです。我々の生存時間のスケールでは、地球の変化は実感出来ませんが、陸地は移動し隆起と沈下を繰り返しています。
当時の海の深さはどのくらいあったのか?が、思われるが、関東平野には太平洋の海が深く入り込んで、栃木、茨城、群馬、埼玉に跨る内海を形成していた事は、海岸線に沿って貝塚遺跡が何千と点在していることを考えれば、この海は豊かで穏やかな海だった事が窺がわれる。千葉の外側を、暖かい黒潮が還流して居いて、非常に住み易い所であっただろうと想像する。縄文期の水深がどの位あったのかは不明だが、一千万年前にこの鬼怒川の中流を10mのクジラが泳いでいるとすれば、少なくとも30mの水深はあったのでは。関東地方の等高線を考慮して見ると、その大まかな形状が推察される。此れだと北関東の平地はだいたい水没する。山地に降った雨を集めて鬼怒川も塩水の内海にそそいで居た可能性が大である。山地には落葉広葉樹林と針葉樹の森が大森林を形成していた。二万年に及ぶ縄文期がそこに展開された。これは一種の奇跡である、大自然の恵みの中で自然と共に生きて来た古い人類である縄文人、この世界はまだ明確に明らかにされてはいない。縄文期が17000年続いた、それ以前に12万年もの旧石器時代があった。12万年前の磨製石器が出土しているのだ。この石斧やガラスのナイフなどを使い、採取と漁労により生活を支えて居たのだろう。
氷河期は最近の物も含めて何度もあった。近々の例を挙げれば、ギュンツ氷期(80万年前)、ミンデル氷期(38万年前)、リス氷期(15万年前)、ウルム氷期(1万5000年前)、そうして我々は次の氷期を迎えることに成る。そして人間に取って肝心なのは、この氷河期がどうして到来するかという事です。永い地質年代を俯瞰すると、氷河期は珍しくなく、寧ろ間氷期に比べて氷河期の方が永いことが解かるのです。人間の文明はこの間氷期の間に発達したものです。温暖な気候に下に植物が繁茂し、それに支えられた動物が増え、動物の一種である人間も増えた。次の氷期が来ると、たぶん私の予想でしかないが、我々の「神である植物は」減少し、本物の食料減少に見舞われる。現在80億人の人口は1000分の1に成るかも知れない。それは地球全人口が800万人に成る事です。500分の1とすると1600万です。必然的にそう成らざる得ない。
地球の歴史を遡れば、或る時太陽が弱くなり何度も氷河期は訪れた。寒冷化の原因は太陽活動の弱まりと地球自体の原因、火山活動の活発化大気中への光を遮る埃灰。宇宙線の増大により雲の発生で太陽光が地表に届かぬ寒冷化、太陽系の歳差運動による周期的なサイクル。色々と原因らしきものが挙げられたが、これが原因という物は一つでは無いであろう。円の中に正多角形が内接する、そしてあらゆる形が円に含まれることで、形はすべて円の中に在る。特に円に内接する精妙な形は、円内の存在する正多角形である。五つの正多角形に数学者としてのヨハネスケプラーは宇宙の構造を見た。彼の考えた惑星の軌道は、この多角形とその運動がもたらすものだった。そうすると正多角形が宇宙の軌道を構造を作っていることに成ります。ケプラーはたぶんそう考えた。(宇宙が非の打ち所がない程完璧ならば数学的整合性が宇宙を形作っていると)。だが多角形は無限の存在する。我々は正二角形さえ描くことが可能だ。
だがKeplerが考えた宇宙的定理性と調和は、物理的存在様式とは同値ではない。数学の理念と現実の宇宙は同じではないということです。実際に宇宙を形成しているのは原則としてはエネルギーが最小のかたちで形成される。これは普遍的な原則です。この宇宙もその様な形を維持している。氷河期も大規模な運動の歪から起きる。それは未だに解明はされていないが、定期的の起こる事を思えば原因は確かに在る。未だに太陽系の形成とその運動は隅から隅まで解明されたわけでは無い。若しもその経過を詳細に調べて見れば、地球内部の原因、太陽系と太陽活動の原因、太陽系を覆う外部銀河系宇宙の原因、と、に分けられるでしょう。我々を含めた生命という存在は、この地球という惑星が生み出したものです。我々は大自然のほんの小さな一部です。
一人の人間の寿命は、カゲロウやセミにくらべれば長いものです。本川先生の本に「ゾウの時間とネズミの時間」というご著書があります。そこで謂われているのは大きな動物ほど長命で小さな動物ほど短命というご指摘です。だが短命と長命が一概に比較できる物では有りません。長命だから得で、短命だから損であるとは言い切れないのです。生物の寿命はその生物の心臓の鼓動数が決めているという御指摘もあります。確かにゾウの鼓動はゆっくりで、ネズミの鼓動ははやい、その鼓動が一億回を打った時が一つの命の寿命だと仰ってゐる。わたしは調べた事が無いですがわかる気がします。そしてもっと言うならば、動物のゾウは子供を産むのに二年に一頭です。ネズミはネズミ算式と言う様に、短期間にたくさんの子供を産む。産まれて来た命がこの世で生物的に為さなければ成らない事は、つぎの世代を産む事と、自分が飢え死にしない様に自分の体を維持する事です。これが地球上の生物の基本的な仕事です。生命はその様に設計されているのです。ですから最適状態を模索するように作られている。大自然は無駄を省きます、最小作用の原理があらゆる所に働いてゐる。大自然の配慮ははるかに人智を超えて居ます。生命の設計は何か大きな数学の原則を再現し大自然はそれを顕現して居ます。
「植物は動物に取って神の如き存在です」。動物はすべて、植物によって命を支えられて居るのです。皆さんは、モミジの種子を見た事が在るでしょうか。モミジの種子は種に二枚の羽根が生えています。その羽根を詳細に見て調べた事が在りますか?。その羽根は実に芸術的に設計されたものです。あれほどの美しい構造を見たことが在りません。何かに気が付く筈です、そうですハエの羽根にもそっくりです。これは驚くほど似ている、私も詳細にルーペで観察し、ハエの羽根とモミジの羽根には、自然上の何らかの知られていない共通性が存在すると思いました。わたしが生物のかたちに興味を持ったのは、小学生の頃でした。なぜこんな形をしているのだろう?、わたしは昆虫少年でしたので、セミやカマキリ、蝶や甲虫類に常に関心を抱いて居ました。自然には何らかの深い配慮が潜んでいると感じていました。世の中は段々に、そんな疑問に答えを用意できる段階にまで進みました。1980年代に「自己組織性」という言葉が学問にも現れて来たのです。その言葉になんら違和感は有りませんでした、なぜならば自分が自然観察から得た結論が、その自己自身で自分を形図くる本能的な能力にある事を知っいたからです。これを数学的に解明する事が必要だと感じていました。生物のかたちは遺伝情報(DNAの塩基構造)のなかに潜んでいる。ですからその塩基構造を記号情報として形の形成と結びつけなければ為りません。それは未だ解明されていない分野です。数学と情報理論、暗号理論、確率論、非線形力学、分子構造数学、非可逆過程論、熱力学、統計物理学、量子力学、相対論、流体力学、成長過程分析、波動工学、等々、理論物理学の全領域と数学の全領域を知って居る必要があります。不思議なのはなぜ、自然はDNA構造の様な見事な情報の蔵を創り上げたかです。
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