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映画『東京家族』について

映画『東京家族』 (その6)  「熱海の温泉宿」から「横浜のホテル」へ (1)

2013年04月05日 | 映画『東京家族』
 まず、資料として、山田洋次監督が、「昭和五十九年十一月」に発表された小文を転載する。


 『阿Qとチャップリンとそして車寅次郎』


 子どもの頃、映画好きな父親に連れられてよくチャップリン映画を観た。私は大声で笑う少年だったらしく、「お前と一緒にチャップリンを観ると恥ずかしくてならない」と父親に小言を云われたりした。
 大人になって、つまり映画界に入ってからも古いチャップリン映画をよく観たし、その中には子どもの頃観た記憶のある作品も何本かあった。もちろん、おかしい場面は子どもと同じようにおかしくて、映画館の暗闇の中で声を出して笑ったりしていたが、しかし、子どもの時には感じなかったおかしみ以外の感情も同時に味わっていた。それは、笑いとは正反対の胸につきささるような悲しみの感情だった。
 例えば大男のポリスに追いかけられて懸命に逃げる姿、デップリ太った金持に気に入られようと精一杯に愛嬌をふりまく姿、そして、金持のきまぐれで立派な自動車に乗せられたりすると、急に胸を張って得意気に道を歩く貧乏人を見下ろしたりする姿_子どもの頃はひたすらおかしかったそのような場面で、大人の私は思わず涙をうかべたりしていた。
 大学一年の時、先輩に借りて読んだ魯迅の“阿Q正伝”の印象の鮮やかさは、例えばチャップリンの“街の灯”を観たあとの、口もきけないような感動と共通している。
 阿Qは中国のチャップリンであり、チャップリンはアメリカの阿Qだと私は思った。両方とも家族はなく、住む家もなく、一定の職業もない。一定の職業がないということは、食うためには何でもやるということである。云うなれば、ルンペンに近い哀れな身の上で、周りの人たちからは軽蔑の眼で見られているのだが、しかし両者ともきわめて自尊心が強いのである。未荘の住民どもは、一人として彼の眼中にはなく、城内の連中をも彼は軽蔑していた、と阿Q正伝には書かれているが、チャップリンもまた、常に紳士としての礼節を忘れず、ダブダブながらもモーニング、穴の開いた山高帽にステッキという、どんな高級な場所に出入りしても恥ずかしくない服装を維持しているのである。
 当然二人とも心ない人々に馬鹿にされ、からかわれ、騙され、ひどい目に遭うのだが、決して心の底から深く傷つくことはない。何故なら、彼等はあまり利口ではないその頭の中で、敗北を変じて勝利となすためのロジックを働かせることができたからである。
 チャップリン映画の特徴は、悲劇的な結末の中にも、ほんのかすかな、遠い山の肩にかかる残雪のような希望を暗示して終るところにある。
 それに比して阿Qの物語の結末は重い。
 無実の罪で銃殺された阿Qに同情する人間は誰もいない。銃殺に処せられたのは阿Qが悪いからだ、悪くなければ、銃殺などに処せられる道理がないではないか、と無知な未荘の人々は考える。魯迅の言葉は半世紀の年月を越えて今日の、私を含めた愚かな日本人の胸に突き刺さる。
 一昨年の秋、寅さんシリーズの第五作「男はつらいよ、望郷篇」が「寅次郎的故事」というタイトルで中国で封切られた。
 私には不安と戸惑いがあった。もちろん中国のことだから、しかるべき指導的な立場にある人々がこの作品を観て検討した上での決定には違いないだろうが、それにしても、寅さんのような働くことが嫌いで年中恋ばかりしているような不届きな人物が、中国の勤労大衆に受入れられるだろうか。
 ロードショーの時期に合わせて中国映画人協会が私を招待してくれた。歓迎のパーティーの席で、寅さん映画が大好きだという中国の映画監督に、私はこっそりその不安を打ち明けてみた。人民服を着た小柄な監督は笑いながらこう答えた。
      ―働くことは尊いことです、しかし、怠けたい、面白おかしく遊んで暮らしたい、という願いを持つのもまた人間ではないでしょうか。
       魯迅の画いた阿Qは肯定的人物ではないけれど、私たちは愛さずにはいられません。
 大連の映画館で「寅次郎的故事」を観た。大勢の中国の観客たちの陽気な笑い声を聞きながら、私はホッとしていた。それは満洲に育った私が少年の頃、「民族の祭典」や「ハワイ・マレー沖海戦」等を観た映画館だった。



                                                             『魯迅全集 第八巻 別刷り小冊子』 山田洋次


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