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映画『東京家族』について

映画『東京家族』 (その10)  デカルト(寄り道)

2013年04月14日 | 映画『東京家族』
 この稿は、次の、「熱海の温泉宿」から「横浜のホテル」へ(5) を書く前の、野球で言わば、素振りのようなものとしての記事である。
 「練習は、見えない所でしろ!」とお叱りをいただくかもしれないが、何卒ご容赦をお願いしたい。



 その箇所は、『方法序説』の第二部から、四つの方法。


 “ 第一は、明証的に真であると認めることなしには、いかなる事をも 真であるとして受けとらぬこと、すなわち、よく注意して速断と偏見を避けること、そうして、それを疑ういかなる隙もないほど、それほどまで明晰に、それほどまで判明に、私の心に現れるもののほかは、何ものをも私の判断に取りいれぬということ。
 
 第二は、私の研究しようとする問題のおのおのを、できうるかぎり多くの、そうして、それらのものをよりよく解決するために求められるかぎり細かな、小部分に分割すること。

 第三は、私の思索を順序に従ってみちびくこと、知るに最も単純で、最も容易であるものからはじめて、最も複雑なものの認識へまで少しずつ、だんだんと登りゆき、なお、それ自体としては互になんの順序も無い対象のあいだに順序を仮定しながら。

 最後のものは、何一つ私はとり落さなかったと保障されるほど、どの部分についても完全な枚挙を、全般にわたって余すところなき再検査を、あらゆる場合に行うこと。”



                                                           『方法序説』デカルト  落合太郎 訳






 ただし、分析して、総合するだけで、映画はできないのも、また当然である。注意して、進んでいこう。

 

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映画『東京家族』 (その9)  「熱海の温泉宿」から「横浜のホテル」へ (4)

2013年04月14日 | 映画『東京家族』
 おなじ『小津安二郎全集 別巻』に、井上和男監督(1924-2011)の論文があり、『晩春』に言及されていた。

 


 “(『晩春』は)、いわゆる小津贔屓の批評家からは、概ね好評だったようだ。
 ただ、制作された昭和二十四年(一九四九)というのは、敗戦から四年目、それこそ日本中が虚脱状態の中で、小津は、闇屋や闇市の横行、パンパンの跋扈、進駐アメリカ軍の横暴と、荒廃した世相や焼跡の残骸の撤去もままならない有様を、全く意識的に避けている。これは前作の『(風の中の)牝雞』とも同じだが、この『晩春』では、トップシーンから北鎌倉の円覚寺塔頭庫裏で行われているお茶会に始まり、能楽堂の舞台やら、外苑の並木道やら、京都東山の塔に飛んで清水の舞台や竜安寺の石庭と、戦火を受けなかった日本の美しさや伝統の芸を前面に押し出している。”  「私的小津論 <ひと・しごと>」 井上和男




 ここに、『晩春』と、同年制作された『第三の男』との、大きな違いがある。『東京家族』は、2011.3.11後の日本を、『晩春』よりも『第三の男』の方法で、みつめることを選択した。『東京物語』と『東京家族』の、歴史的な視点を普遍化するか、すこし、前面に出すかの違いにもつながる。私は、山田監督の方法を支持するひとりである。




 井上和男監督の仕事を調べていたら、『明日をつくる少女』(1958)という作品があることを知った。これは、早乙女勝元氏原作で、馬場当(ばばまさる 1926-2011)氏と山田監督の共同脚本だ。どこかの映画館にかかれば、観に行きたい。

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