時の観念に関しては、哲学者の側で色々昔から六かしい(むつかしい)議論があったようである。自分はそれらの諸説について詳しく調べてみる機会を得ないが、簡単な言葉でしかもそれ自身既に時の概念を含んでいないような言葉で「時」に定義を下そうというような企ては大抵失敗に帰しているようである。「一様に流れる量」であるとか、「逸しつつある拡がり」だとかいうのは、勿論時の定義でもなければ説明とも思われぬ。Si non rogas intelligo (考えるほど分らない)という方が至当のようである。時の前後の観念はとにかく直感的なものであって、なんらかの自然現象に関して方則を仮定する事なしに定義を下し得べき性質のものではないと思われる。
吾人が外界の事象を理解し系統化するための道具として、いわゆる認識の形式の一つとして「時」を見做す事には多くの科学者も異論はないであろうが、それだけでは「時」の観念の内容については何事も説明されない。近頃ベルグソンが出て来て、カントや科学者の考えた「時」というものは「空間化された時」であって「純な時」というものが外にあると考え、彼のいわゆる形而上学の重要な出発点の一つとしているようである。それらの議論は六かし過ぎて自分には呑込めないが、とにかく我々が力学や物理学で普通に用いる時の概念は空間の概念を拡張したものだという事は疑いもない事である。力学はつまり幾何学の拡張である。空間座標の外に時を入れれば運動学が成立し、これに質量を入れて経験の結果を導入すれば力学が出来る。これらの数学的の式における時間tが空間xyzとほとんど同様に取扱われ得る事は、ミンコフスキーの四元空間 welt の構成されるのを見ても分る事である。
このように時を空間化して取扱ったために得られる便利は多大なものであるが、しかし人間の直感する「時」の全部はtの符号に含まれていない。
ニュートンの考えたような、現象に無関係な「絶対的の時」はマッハによって批評されたのみならず、輓近(ばんきん)相対性原理の研究とともに更に多くの変更を余儀なくされた。この原理の発展以来「時」の観念はよほど進化して来たが、それはやはり幾何学的の「時」の範囲内での進歩である。
吾人の直感する「時」の観念に随伴して来る重大な要素は「不可逆」ということである。この要点は時を空間化するために往々閑却されるものである。空間の前後は観者の位置を更えれば(かえれば)逆になるが、時間は一方にのみ向って流れている。抽象的な数学から現実の自然界に移ってその現象を記載しようとする時には、空間化された時だけでは用の弁じない場合が起る。それはいわゆる不可逆現象の存在するため、熱力学第二方則の成立しているためである。
この法則の設立、エントロピーの概念の導入という事が物理学の発達史上で如何に重大なものであったかという事は種々の方面から論ずる事が出来ようが、ここで述べたいと思うのは、空間化された「時」だけでは取扱う事の出来ぬ現象を記載するために最も便利な「時」の代用物を見出した事である。
もし宇宙間にただ一つ、摩擦のない振子があって、これを不老不死の仙人が見ている、そして根気よく振動を数えているとすればどうであろう。この仙人にとっては「時」の観念に相当するものはただ一つの輪のようなものであって、振動を数える数は一でも二でも一万でもことごとく異語同義(シノニム)に過ぎまい。よしやそれほど簡単な場合でなくとも、有限な個体の間に有限な関係があるだけの宇宙ならば、万象はいつか昔時の状態そのままに復帰して、少なくも吾人のいわゆる物理的世界が若返る事は可能である。このような世界の「時」では、未来の果は過去に継がってしまうかもしれぬ。
吾人の宇宙を不可逆と感じる事は、「時」を不可逆と感ずる事である。全エントロピーは時とともに増すとも減ずる事はないというのが事実であるとすれば、逆にエントロピーをもって「時」を代表させる事は出来ないであろうか。普通の「時」とエントロピーとの歩調が如何に一様でないとしても、そこに一つの新しい「時」の観念が成立し得るのではあるまいか。
エントロピーの概念自身には「時」が含まれなくてもよい。これが時と関聯して来るのは自然の経験の結果である。われわれの普通日常用いる時計の針の廻る角度がたまたま時の代用となるのもやはり自然の経験に外ならぬ。少なくもこの点においては、時計の「時」とエントロピーの「時」とは対等のものである。
今もしここに宇宙のエントロピーの量を指示する時計があると想像する。この時計の示す時刻は何を示すかといえば、それは宇宙の老衰の程度を示すものである。エネルギーの全量は不変でも、それはこの時計の進むにつれて堕落し廃頽して行く。この時計ほど適切に不可逆な時の進みを示すものはないのであろう。しかし実際このような時計があったとしても、それが吾人の日常普通の目的に適当したものではないかもしれぬ。第一に種々の個体の集団から出来た一つの系を考える時、その個体各個のエントロピーの時計の歩調は必ずしも系全体のものの歩調と一致しない。従って個体相互の間で「同時」という事がよほど複雑な非常識的なものになってしまう。しかしそこにまたこの時計の妙味もあるのである。譬喩(ひゆ)を引けば浦島太郎が竜宮の一年はこの世界の十年に当るというような空想や、五十年の人生を刹那に縮めて嘗め尽すというような言葉の意味を、つまり「このエントロピーの時計で測った時の経過と普通の時計と比べて一年と十年また五十年と一瞬とに当る」と説明すればよいかもしれぬ。これはただ通俗的な譬喩に過ぎないが、とにかく心理的に感ずる時の長短が人間自身並びに周囲の物質的エントロピーの増加の多少と、幾分か相応じるように見えるのは興味のある事である。冬眠の状態にある蛙が半年の間に増大させるエントロピーの量は、覚醒期間のそれに比べて著しく少ないに相違ない。
次にエントロピーは一つの系全体にわたる積分として与えらるる性質のものであって、それが指定されても系を組織する各個体の現状は指定されない。これはこの時計の不便な点であって同時に優れた点である。ガス体の分子やエレクトロンの集団あるいは光束の集合場において各個部分の状態を論ぜんとしても、普通の「時」を使う力学は役に立たなくなる場合がある。こういう場合にこのエントロピーの有難味が始めて明白になって来るのである。
かように、エントロピーの役に立つ場合には、必ずそこにいわゆる「分子的に混乱した(molekular ungeordnet)系」がある。分子やエレクトロンの数が有限である間はエントロピーは問題にならず、変化は単義的で可逆であるが、これが無限になって力学が無能となる時に、始めてエントロピーが出て来る。ボルツマンがこのような混乱系の内部の排置の公算(プロパビリティ)をエントロピーと結び付けたのは非常な卓見で物理学史上の大偉業であった。プランクは更にこれを無限な光束の集団に拡張して有名な輻射の方則を得たのは第二の進歩であった。すなわち系の複雑さが完全に複雑になれば統計という事が成り立ち、公算というものが数量的に確定したものになる。そして系の変化はその状態の公算の大なる方へ大なる方へと進むという事が、すなわちエントロピーの増大という事と同義になるのである。
「時」の不可逆という事にもまた分子的混乱系の存在が随伴している。前に挙げたような、仙人と振子とだけの簡単な世界では、可逆な「時」が可能であるが、吾人の宇宙はある意味で分子的混乱系である。ある学者の考えているように森羅万象をことごとく有限な方程式に盛って、あらゆる抽象前提なしに現象を確実に予言することは不可能であって、それ故にこそ公算論の成立する余地が存している。そのために吾人の「時」には不可逆の観念が伴って来る。そのために未来と過去の差別が生じるのではあるまいか。未来は「であろう」で、すなわちプロパビリティのみである。この宇宙系のプロパビリティの流れはすなわちエントロピーの流れで、すなわち吾人の直感する不可逆な「時」の流れではあるまいか。
エントロピーに随伴して来る観念は「温度」である。例えば簡単なガス体の系では容積を保定しておけば、エネルギーの増す時にそのエントロピーの増加は「温度」に反比例する。前のような通俗的の譬(たとえ)を引けば、人間のエントロピーの増大「精神的の時」の進みが伴うと仮定すれば、また一定の物理的エネルギーを与えられた時にその人の「時」の進み方はその人の感覚の鋭鈍によるものと仮定すれば、この場合の「温度」に相当するものはすなわちその鋭鈍を計る尺度の読取りに当るものである。尤もこれはただの譬喩に過ぎない。物理学上の言葉の濫用かもしれぬ。しかし真面目な物理学上の事柄でエントロピーや温度の考えを拡張して行く余地は十分にあるように思われる。すなわちどこでも molekular ungeordnet の状態が入り込んで来るところには、これらの観念の幅を利かす余地がある。例えば液体の運動でもいわゆる混乱運動(turbulent motion)を論ずる時には、オスボルン・レーノルズが行ったような特殊な取扱いが必要になって来る。ここにも、エントロピーや温度の観念の拡張さるべき余地があるのではあるまいか。これに類した問題は液体の交流に関するものである。
現今物理学の研究問題は、分子、原子、エレクトロン、エネルギー素量となって、到る処に混乱系が跳梁している。プロパビリティの問題、エントロピーの時計の用途は存外に広いという事を想い出すに恰好な時機ではあるまいか。
時。エントロピー。プロパビリティ。この三つは三つ巴(みつどもえ)のように継がった三位一体(さんみいったい)である。この謎の解かれる未来は予期し難いが、これを解かんと勉めるのもあながち無駄な事ではあるまい。
(大正六年一月) 「理学界」 『寺田寅彦全集 第五巻』 岩波書店
吾人が外界の事象を理解し系統化するための道具として、いわゆる認識の形式の一つとして「時」を見做す事には多くの科学者も異論はないであろうが、それだけでは「時」の観念の内容については何事も説明されない。近頃ベルグソンが出て来て、カントや科学者の考えた「時」というものは「空間化された時」であって「純な時」というものが外にあると考え、彼のいわゆる形而上学の重要な出発点の一つとしているようである。それらの議論は六かし過ぎて自分には呑込めないが、とにかく我々が力学や物理学で普通に用いる時の概念は空間の概念を拡張したものだという事は疑いもない事である。力学はつまり幾何学の拡張である。空間座標の外に時を入れれば運動学が成立し、これに質量を入れて経験の結果を導入すれば力学が出来る。これらの数学的の式における時間tが空間xyzとほとんど同様に取扱われ得る事は、ミンコフスキーの四元空間 welt の構成されるのを見ても分る事である。
このように時を空間化して取扱ったために得られる便利は多大なものであるが、しかし人間の直感する「時」の全部はtの符号に含まれていない。
ニュートンの考えたような、現象に無関係な「絶対的の時」はマッハによって批評されたのみならず、輓近(ばんきん)相対性原理の研究とともに更に多くの変更を余儀なくされた。この原理の発展以来「時」の観念はよほど進化して来たが、それはやはり幾何学的の「時」の範囲内での進歩である。
吾人の直感する「時」の観念に随伴して来る重大な要素は「不可逆」ということである。この要点は時を空間化するために往々閑却されるものである。空間の前後は観者の位置を更えれば(かえれば)逆になるが、時間は一方にのみ向って流れている。抽象的な数学から現実の自然界に移ってその現象を記載しようとする時には、空間化された時だけでは用の弁じない場合が起る。それはいわゆる不可逆現象の存在するため、熱力学第二方則の成立しているためである。
この法則の設立、エントロピーの概念の導入という事が物理学の発達史上で如何に重大なものであったかという事は種々の方面から論ずる事が出来ようが、ここで述べたいと思うのは、空間化された「時」だけでは取扱う事の出来ぬ現象を記載するために最も便利な「時」の代用物を見出した事である。
もし宇宙間にただ一つ、摩擦のない振子があって、これを不老不死の仙人が見ている、そして根気よく振動を数えているとすればどうであろう。この仙人にとっては「時」の観念に相当するものはただ一つの輪のようなものであって、振動を数える数は一でも二でも一万でもことごとく異語同義(シノニム)に過ぎまい。よしやそれほど簡単な場合でなくとも、有限な個体の間に有限な関係があるだけの宇宙ならば、万象はいつか昔時の状態そのままに復帰して、少なくも吾人のいわゆる物理的世界が若返る事は可能である。このような世界の「時」では、未来の果は過去に継がってしまうかもしれぬ。
吾人の宇宙を不可逆と感じる事は、「時」を不可逆と感ずる事である。全エントロピーは時とともに増すとも減ずる事はないというのが事実であるとすれば、逆にエントロピーをもって「時」を代表させる事は出来ないであろうか。普通の「時」とエントロピーとの歩調が如何に一様でないとしても、そこに一つの新しい「時」の観念が成立し得るのではあるまいか。
エントロピーの概念自身には「時」が含まれなくてもよい。これが時と関聯して来るのは自然の経験の結果である。われわれの普通日常用いる時計の針の廻る角度がたまたま時の代用となるのもやはり自然の経験に外ならぬ。少なくもこの点においては、時計の「時」とエントロピーの「時」とは対等のものである。
今もしここに宇宙のエントロピーの量を指示する時計があると想像する。この時計の示す時刻は何を示すかといえば、それは宇宙の老衰の程度を示すものである。エネルギーの全量は不変でも、それはこの時計の進むにつれて堕落し廃頽して行く。この時計ほど適切に不可逆な時の進みを示すものはないのであろう。しかし実際このような時計があったとしても、それが吾人の日常普通の目的に適当したものではないかもしれぬ。第一に種々の個体の集団から出来た一つの系を考える時、その個体各個のエントロピーの時計の歩調は必ずしも系全体のものの歩調と一致しない。従って個体相互の間で「同時」という事がよほど複雑な非常識的なものになってしまう。しかしそこにまたこの時計の妙味もあるのである。譬喩(ひゆ)を引けば浦島太郎が竜宮の一年はこの世界の十年に当るというような空想や、五十年の人生を刹那に縮めて嘗め尽すというような言葉の意味を、つまり「このエントロピーの時計で測った時の経過と普通の時計と比べて一年と十年また五十年と一瞬とに当る」と説明すればよいかもしれぬ。これはただ通俗的な譬喩に過ぎないが、とにかく心理的に感ずる時の長短が人間自身並びに周囲の物質的エントロピーの増加の多少と、幾分か相応じるように見えるのは興味のある事である。冬眠の状態にある蛙が半年の間に増大させるエントロピーの量は、覚醒期間のそれに比べて著しく少ないに相違ない。
次にエントロピーは一つの系全体にわたる積分として与えらるる性質のものであって、それが指定されても系を組織する各個体の現状は指定されない。これはこの時計の不便な点であって同時に優れた点である。ガス体の分子やエレクトロンの集団あるいは光束の集合場において各個部分の状態を論ぜんとしても、普通の「時」を使う力学は役に立たなくなる場合がある。こういう場合にこのエントロピーの有難味が始めて明白になって来るのである。
かように、エントロピーの役に立つ場合には、必ずそこにいわゆる「分子的に混乱した(molekular ungeordnet)系」がある。分子やエレクトロンの数が有限である間はエントロピーは問題にならず、変化は単義的で可逆であるが、これが無限になって力学が無能となる時に、始めてエントロピーが出て来る。ボルツマンがこのような混乱系の内部の排置の公算(プロパビリティ)をエントロピーと結び付けたのは非常な卓見で物理学史上の大偉業であった。プランクは更にこれを無限な光束の集団に拡張して有名な輻射の方則を得たのは第二の進歩であった。すなわち系の複雑さが完全に複雑になれば統計という事が成り立ち、公算というものが数量的に確定したものになる。そして系の変化はその状態の公算の大なる方へ大なる方へと進むという事が、すなわちエントロピーの増大という事と同義になるのである。
「時」の不可逆という事にもまた分子的混乱系の存在が随伴している。前に挙げたような、仙人と振子とだけの簡単な世界では、可逆な「時」が可能であるが、吾人の宇宙はある意味で分子的混乱系である。ある学者の考えているように森羅万象をことごとく有限な方程式に盛って、あらゆる抽象前提なしに現象を確実に予言することは不可能であって、それ故にこそ公算論の成立する余地が存している。そのために吾人の「時」には不可逆の観念が伴って来る。そのために未来と過去の差別が生じるのではあるまいか。未来は「であろう」で、すなわちプロパビリティのみである。この宇宙系のプロパビリティの流れはすなわちエントロピーの流れで、すなわち吾人の直感する不可逆な「時」の流れではあるまいか。
エントロピーに随伴して来る観念は「温度」である。例えば簡単なガス体の系では容積を保定しておけば、エネルギーの増す時にそのエントロピーの増加は「温度」に反比例する。前のような通俗的の譬(たとえ)を引けば、人間のエントロピーの増大「精神的の時」の進みが伴うと仮定すれば、また一定の物理的エネルギーを与えられた時にその人の「時」の進み方はその人の感覚の鋭鈍によるものと仮定すれば、この場合の「温度」に相当するものはすなわちその鋭鈍を計る尺度の読取りに当るものである。尤もこれはただの譬喩に過ぎない。物理学上の言葉の濫用かもしれぬ。しかし真面目な物理学上の事柄でエントロピーや温度の考えを拡張して行く余地は十分にあるように思われる。すなわちどこでも molekular ungeordnet の状態が入り込んで来るところには、これらの観念の幅を利かす余地がある。例えば液体の運動でもいわゆる混乱運動(turbulent motion)を論ずる時には、オスボルン・レーノルズが行ったような特殊な取扱いが必要になって来る。ここにも、エントロピーや温度の観念の拡張さるべき余地があるのではあるまいか。これに類した問題は液体の交流に関するものである。
現今物理学の研究問題は、分子、原子、エレクトロン、エネルギー素量となって、到る処に混乱系が跳梁している。プロパビリティの問題、エントロピーの時計の用途は存外に広いという事を想い出すに恰好な時機ではあるまいか。
時。エントロピー。プロパビリティ。この三つは三つ巴(みつどもえ)のように継がった三位一体(さんみいったい)である。この謎の解かれる未来は予期し難いが、これを解かんと勉めるのもあながち無駄な事ではあるまい。
(大正六年一月) 「理学界」 『寺田寅彦全集 第五巻』 岩波書店