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映画『東京家族』について

映画『東京家族』 (その11) 長江古義人(ちょうこう こぎと)と塙吾良の対話 (寄り道2)

2013年04月15日 | 映画『東京家族』
 “―いまは家庭にヴィデオデッキが普及したので、ひとつの映画を十回も二十回も見る若い連中がいるんだね。しかし、ある映画をヴィデオで、それも個室で繰り返し見ることは、作品の受容としてまともなものだろうか? きみの分野でいえば、本には図書館もあるけれど、一般には個人が書棚にテキストを備えている。それでいて、ある作家、ある作品に強い関心を持つとしても、短期間にそれほど繰り返して読むことはないだろう? ある時を置いては、特定の本に帰る、ということはある。それでも、『魔の山』を生涯で五、六回読む、という程度じゃないか?
 映画についてもね、いわゆる名画座に通って、永い時がたつうちに相当の回数を見ているということなら、おれにだってあるよ。きみとパリの場末で見た、ヒッチコックの『バルカン超特急』とかさ。しかし、いまどきの映画青年は、ひとつの作品を、ヴィデオで何度も何度も見るんだ。そしてあるシーンの細部についてなら、幾らでもウガッたことをいえるんだよ。おれの経験では、そうした談論から生産的な意味を教えられたことはない。
 映画の場合はさ、どれだけ凡庸なやつにしても、短期間に何度も見ていれば、あるシーンを複眼的に見てとることができるようになる。たとえば画面中央の主人公はそれとして、かれの背後の人物の動きがこうだとか、ごたくを並べられるわけだ。どうにも方腹痛くてね。
 も一度いうが、そういうやり方は、映画を見る経験として妥当だろうか? ひとつの作品の、二時間弱の時間の流れの、その一瞬、一瞬の生きる経験だといえるだろうか? 最初見た時よく見ていなかったものを、再度見て追認することで、本当に受容は深まるのか? 二度目から、かれは、最初見た映画の、いわばメタ映画を見ているのじゃないか? それなら新しい映画を見ての感動とは、別の感情経験があるのみなんじゃないか? つまり二次的なメタ映画経験が……
 そこでおれはね、幾度も繰り返して見る必要のない映画を作りたい。一回こっきりの、新鮮な目ですべてを見てとれる映画を作りたいんだ。クロースアップを多用して(吾良は close-up を正確な英語に発音した)観客に見るべきものを指図するというような、セコイことはしないよ。画面いっぱいに、その情景の全体をまるごと撮るのが、原則だ。そして映画を見る人間みなに、シーンの細部全体をしっかり見てとれる時間をあたえる。
 いうまでもなく、これまでおれが公開してきたようなものじゃない。あれらは部分としての映画なんだ。やがておれの撮る全体の映画を見た人間は、おのずからそれを全体的に見てとるからね、再度見る必要はない。しかも一度の全体的な経験をつうじて、かれの世界の見方は変わってしまう……”




                                                               『取り替え子 チェンジリング』 大江健三郎





 次回は、「熱海の温泉宿」から「横浜のホテル」へ(5) の記事を書く。 



  

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