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映画『東京家族』について

映画 『東京家族』 (その20) 横尾忠則 (2)

2013年05月18日 | 映画『東京家族』
 横尾氏には、画集の『Y字路』だけでなく、写真集もある事を知った。

 『東京Y字路』 国書刊行会 (2009.10.10)。

 一葉一葉みていくと、不思議な事に気付く。人の気配は充満しているのに、人影がない。「あとがき」にその理由があった。

 “この東京の大都会には人を一人も存在させなかった。人を排除することで、虚構の風景を出現させたかった。つまり物語の幕が開く瞬間の登場人物の不在の舞台を見せたかった。物語の始めと終りを。”

 しかし、いずれも遠景ながら、よく見ると人は存在している。(024、025、027、028、029、041、046、048、059、065、073、096、100、134、136、139、140、148、152、181、186、193、249。139の交番と、181のカレー店の人物は例外的に近く大きいし、206の四角いミラーには横尾氏が、199には黒猫さえいる。)

 記憶と幻想の詩情が織り込まれた絵画の『Y字路』とは違い、この写真の『東京Y字路』は、ひとことで云うと、女性の裸の脚だと、私は思った。あまりにあられもない見方かもしれないが、証拠がある。077に現れる文字だけだったら明言はできないが、この写真集には表紙を含めて3葉だけ、写真集でありながら、デジタル的に彩色されている写真がある。この色感と、158に表示される文字を見てほしい。

 昌次の家も195にあり、そこは夜である。
 209には鬼子母神。一青窈と『珈琲時光』の影を追ってこの場所へ行く時は、ストロボの力を借りるにしても、月の夜にすると決めた。
 その場所には、もうひとりの映画監督の記憶も重なっている。


 “とつぜん、右手のシグナルばしらが、がたんとからだをゆすぶつて、上の白い横木を斜めに下の方へぶらさげました。これはべつだん不思議でもなんでもありません。
 つまりシグナルがさがつたといふだけのことです。一晩に十四(じふし)回もあることなのです。” 宮澤賢治 (1921.9.14)
 





 ※ 映画『東京家族』(その15)が、間違って重複してしまった。製本する時に直す(笑)。


 
 ※(この「東京」の放棄も検討された原子力事故が2011年に起こり、今も続いている。避難を呼びかける声があり、それは正しいが、物事には順番があり、福島の子供たちが先だと、私は考えている。)

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