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映画『東京家族』について

 『ニーチェの馬』  冒頭のナレーション

2013年12月27日 | 映画『東京家族』

1889年1月3日
トリノでのこと
フリードリヒ・ニーチェは
カルロ・アルベルト通りの
部屋を出た

散歩か それとも
郵便局へ向かったのか

その途中
間近に あるいは遠目に
強情な馬に
手こずる御者を見た

どう脅かしつけても
馬は動かない

ジュゼッペか カルロか
恐らくそんな名の御者は
烈火のごとく怒り
馬を鞭で打ち始めた

ニーチェが駆け寄ると
逆上していた御者は
むごい仕打ちの手を止めた

屈強で 立派な口ひげを
たくわえたニーチェは
泣きながら
馬の首を抱きかかえた

ニーチェは家に運ばれ
2日間 無言で寝椅子に
横たわっていた後――

お約束の
最期の言葉をつぶやいた
“母さん 私は愚かだ”

精神を病んだ最後の10年は
母と看護師に付き添われ
穏やかであった

馬のその後は誰も知らない








ぎょ-しゃ【御者・馭者】  ① 馬を取扱う人。

              ② 馬車の前に乗って、馬をあやつり走らせる人。



うま-ひき【馬引】  うまかた。まご。



うま-かた【馬方】  ① 駄馬をひいて客や荷物を運ぶことを業とする人。





                                                『広辞苑 第六版』

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 『ニーチェの馬』 , 『反時代的考察』  フリードリッヒ・ニーチェ

2013年12月27日 | 映画『東京家族』

 “われわれドイツ人は抽象によって感覚する、われわれはすべて歴史によって堕落させられた。この命題はなんと絶望的に響くことであろうか――これは次に来る国民文化へのあらゆる希望を根こそぎにする命題であろう。というのは、そのような希望はいずれもドイツ的感覚の真正と直接性とに対する信仰、不可侵の内面性に対する信仰から生え出るからである。もし信仰と希望の泉が濁らされてており、内面性が跳躍し、踊り、扮装し、抽象と打算によって自己を表現し、次第に自己自身を失うことを学んでしまっているならば、いったいなお何が希望され信仰されるだろうか! そして自身の統一的内面性に対する確信がもはやなく、形を損ぜられ堕落させられた内面性をもった教養ある者と近づき難い内面性をもった教養なき者とに分裂しているような民族のもとで偉大な生産的精神はなおどのようにして耐えうるであろうか! もしも民族感覚の統一が失われて行ってしまい、その上に、民族の教養ある部分と自称し、国民的芸術精神の持ち主であることに対する権利を自己に要求しているまさしくこの一部分において感覚が偽造され彩色されていることがわかるならば、生産的精神はなおどのようにして耐えうるであろうか。”
       

                                『反時代的考察 Unzeitgemässe Betrachtungen』  フリードリッヒ・ニーチェ 小倉志祥 訳     

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