※ 歳末である。飛行機のチケットが取れない(笑)。
明日は、船橋三番瀬国際空港へ行って、キャンセル待ちの行列である(笑)。
そこで今日は、前回の文章の続きを書く。③「田中秀征(2)」が、新しい部分である。
近い過去と、すこし遠い過去、現在の政治の惨状を理解するために。
①「田中秀征(序)」 (2013.12.6記, (映画『東京家族』18)へ転記)
直接の始まりは、「政治改革」と「選挙制度改革」を混同した言葉のゆるさに起因するのではないか?
“政治改革法の成立とともに、細川政権の「政治改革政権」としての一義的使命は終わり、それによる求心力はほぼ消滅した。(中略)
また、細川政権は、会期末の土壇場で、自民党と妥協して政治改革法案の成立を図った。これは瞬間的にせよ、反自民の枠を越え、大連立、挙国一致体制が現出したことを意味している。それまでかたくなに自民党に背を向けていた連立与党も、ここで初めて自民党と向き合い固い握手をかわすことになる。かくして細川政権の非自民、反自民の性格が一気に薄められ、それによる求心力も急速に弱まることになった。”
『さきがけと政権交代』 田中秀征 (東洋経済新報社 1994年4月14日 発行)
ここでまず、政治的課題がある度に言及される、「公債残高の累増」の表を見ると、
http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/004.htm
平成5年(1993年)の細川政権の後に、グラフの性格が一変している。
② 「田中秀征(1)」 (2013.12.8記,転記)
細川非自民連立政権に参加しなかった共産党を一旦除いて考えると、これ以後の20年は、“大連立、挙国一致体制が現出した”時代であったとも言え、実質的な野党の消滅が、行政の暴走を招き、行きついたひとつの場所が、「2013.12.6」だった。
後述するが、「さきがけの志」の大枠は正しかったと、今も私は考えているが、実際に現出したものは、立法機関の“死”であった。それは何故か?
ここで、最近の田中氏の発言が、あるサイトで紹介されていたので、URLを貼っておく。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201312/2013120400767 (時事ドットコム)
“衆院が小選挙区制になって、公認を得たい候補者が自由に物が言えなくなり、(自民)党の幅が狭まった。小選挙区制の行き着いた先と言える” 田中秀征
「小選挙区制」とは何か? 何故導入されるに事に至ったのか? (2013.12.8)
③ 「田中秀征(2)」 (2013.12.12記)
“私(田中秀征)はどちらかと言えば、政治改革は、器より中身の問題、制度より人の問題と捉え、小選挙区制の導入には不熱心な方であった。小選挙区制より、中選挙区連記制とか衆議院全国区制の方が、政界により良い人材を集めることができると信じていた。
この点については、宮沢さんも細川さんも同じような考えだったと私は思う。”
『さきがけと政権交代』 田中秀征 (東洋経済新報社 1994年4月14日 発行)
この本は、細川政権の直中、総理大臣特別補佐だった田中氏が、年末年始の4日間、南太平洋の船上で一気に書いたと言う。細川氏との出会い、宮沢政権末期から急転する政治状況と、政権交代に至る過程を、さきがけの視点から、率直に、嘘はなく書かれた本だと、私には読めた。
「政治改革関連法」が成立した1994年1月、本書の後半では、
“新しい選挙制度も、運用に気をつけなければ、それで政治が良くなる保証は何もない。まかり間違うと、さらに悪くなることもあり得るのだ。(中略)今回の新制度は、現在の国会で成立し得る最善の妥協案ということだろう。欠陥があれば、迷わずどんどん改正すれば良い。”
とも書かれている。ここまで見えていたのに、何故さきがけは小選挙区制導入を主張したのか。
その理由の前に、さきがけの政治理念と、田中氏の「大連立」の考え方を、まず、本書で確認しておきたい。
(2013.12.12)
『晩年様式集 イン・レイト・スタイル p.332』 大江健三郎 「渡邊一夫画 ドン・キホーテ」
“私は判型こそ違え、そのオリジナルはひとしくする(ギュスターヴ・ドレの挿画)、精巧な印刷の岩波文庫版『ドン・キホーテ』新訳を見付けていた。” 『同上 pp.109-114』
“――親爺さんがユダヤ系アメリカ人で母親が日本人、戸籍上は日本の名前に通じるNaomiなんだよ。” 『さようなら、私の本よ!』 大江健三郎 「第六章 ミシマ=フォン・ゾーン計画」