世間はいつの間にか桜満開の季節を迎えていました。岡山市の標準木は後楽園にあるようですが、何故か開花宣言は全国的に遅れを取るのに満開だけは他の地域と争って勝とうとしています。できれば、早く咲いて長らく咲き続けてほしいものですが・・(笑)
西大寺観音院の近隣の桜の定点観測をするのは毎春の恒例行事のようになりました。
それは決して花見ではなく単なる桜見物です。花見するなら後楽園周辺の方が良いに決まっていますから(笑)
そう言えば、若い頃は尾道の千光寺公園や姫路城などへ遠出して花見をしていたこともありました。今では、そこまでして桜を愛でる元気も余裕もありません。
それでも、この季節の桜には心を動かされます。日本人と桜の関係は昔から切っても切れないものだったのだと痛感させられる春爛漫の今日この頃です。
ところで、西大寺公民館(旧:西大寺市民会館)前の公園の周辺に桜並木が花を開いているのですが、犀の像があるのをご存知の方も多いでしょう。
何故、犀なのか?
これは、寺の歴史に関わる言い伝えによれば、751年(天平勝宝3年)に周防の国玖珂庄(現在の山口県岩国市玖珂町)に住んでいた藤原皆足姫が金岡郷(現在の岡山市東区西大寺金岡辺り)に観音像を安置したことに始まり、777年(宝亀8年)安隆が現在の地に堂宇を建立したとされています。そこは、元々は犀の角を戴き鎮めた地に建立されたので「犀戴寺(さいだいじ)」と呼ばれていましたが、後に後鳥羽上皇の祈願分から「西大寺」に改称されて現在に至ると言われています。その伝承からこの地の守り神とされるのが犀であることで、犀の像が立っているのです。
1507年の「金陵山古本縁起」によると、1299年に堂宇を消失したようですが、その記録によれば、本堂、常行堂、三重塔、鐘楼、経蔵、仁王門等を構えていたことが記されており、その当時でも地方屈指の大寺であったことが想像できます。備前国の要港とされる吉井川河口(この位置より南に位置する場所は元禄以降に児島湾干拓などの土木工事によって開発された新田であり、それ以前は吉井川河口がこの辺りだったと伝えられています)に位置していたことで庶民信仰を集め会陽へと繋がっているとされます。
桜の中でもソメイヨシノは人工的に開発されたクローンである為、一本の木の寿命は60年とも言われています。従って、この桜たちもいつしか寿命をむかえて花をつけなくなるでしょう。若い木と入れ替わりながら桜並木を変遷させていくさまと、そして散り際の潔さを人生に例える例が多くなるのです。武士や明治以降の軍人の生き方の模範となったのもよく分かります。桜は民家の庭に植えてはいけないという教えもその儚さがその家にもたらす陰の部分を不安視したものだと思います。
表題の『散る桜 残る桜も 散る桜』は江戸時代後期の備中国の禅僧であった良寛禅師の辞世の句とされています。長らえた命もいずれ散りゆく命であるということを、桜は咲いた瞬間から散りゆく運命を背負っていることに例えていると言われています。
人の歴史と寄り添ってきた桜を取り上げた歌や俳句が数多く残されているのは、日本人と桜の花の強く深い関りの歴史だと思っています。
そんなことを考えていたら、飲んでどんちゃん騒ぎの花見をするのはちょっと申し訳なく思えるようになり、近年では桜の花を見るだけの行事にとどめています。
風流とは対極をなすような暮らしをしているからこそ、そういう息抜きを真面目に考えても良いのかななどと難しく考えています。
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