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宇宙に始まりはなく過去が無限に存在する可能性が示される

2025年02月12日 23時03分32秒 | 科学のはなし
2021/10/14(木) 22:40

>宇宙の過去が無限にあるということが、物理的に何を意味しているのかも、まだよくわかりません。

>とはいえ、宇宙に始まりがないということは、少なくとも数学的には可能なことなのです。



時間と空間の起源

元論文If time had no beginning
https://arxiv.org/abs/2109.11953


宇宙はビッグバンによって始まり、それ以前は「無」だったというのが現在の定説となっています。

けれど、もしかしたら私たちの宇宙は常に存在していて始まりはなかった可能性が、新たな量子重力理論によって示されました。

イギリス・リバプール大学(University of Liverpool)の研究チームは、因果集合理論(causal set theory)と呼ばれる量子重力の新しい理論を使い、宇宙の始まりについて計算したところ、宇宙に始まりはなく無限の過去に常に存在していたという結果を得ました。

この結果に従うと、ビッグバンは宇宙が遂げた最近の進化の1つでしかないということになります。


この研究成果は、9月24日にプレプリントサーバー『arXiv』で公開された論文に掲載されています。

物理学が未だに説明できていない問題

現在、物理学にはまったく異なる2つの理論が存在し、どちらも大きな成功を収めています。

その2つの理論とは、量子力学と一般相対性理論です。

量子力学は、自然界を支配する4つの基本的な力のうち、3つの力(電磁気力、弱い力、強い力)を微小な世界で記述することに成功しました。
ただ、重力についてはまだうまく説明することができていません。
一方、一般相対性理論は、これまで考案された中でもっとも強力で完全な重力の記述方法です。


しかし、一般相対性理論にも不完全な部分があり、この世界で2つのポイントについてだけ理論が破綻しています。

それが「ブラックホールの中心」と「宇宙の始まり」です。
ここについては、一般相対性理論でも計算が破綻してしまい、信頼できる結果を得ることができません。


そのため、これらの領域は「特異点」と呼ばれていて、現状の物理理論が及ばない時空のスポットとされています。


これは、一般相対性理論が数学的につまづいているポイントでもあります。


この2つの特異点で、一般相対性理論がうまく機能しない理由は、この場所では重力が非常に小さなスケールで非常に強くなっているためです。

一般相対性理論はマクロな世界を記述する古典物理学の理論のため、微視的な世界の重力をうまく取り扱うことはできていません。

一般相対性理論は重力を時空の曲率として表現しています。


投げたボールが地面に落ちるのは、地球が歪めた空間に沿って、ボールが軌跡を曲げ、それが地面と交わるためです。


しかしあまりに微視的な世界では、空間が歪むだけでは重力を記述できません。アインシュタインも生涯この問題に悩んでいました。

そのため、この微視的な世界の強い重力を記述するための新しい理論が必要となります。

そこで、現在考えられているのが「量子重力理論」です。

ただこの理論も「超ひも理論」や「ループ量子重力」など、さまざまな候補が存在していますが、まだ完成されていません。

しかし、そのすべてが同じような方向から問題のアプローチをかけています。
それが「時間と空間というものがなぜ存在するのか?」「どこから生じているのか?」「そもそも時空のもっとも基本的な構造とはなんなのか?」ということです。

量子重力理論を考えたとき、いずれの候補理論も、時間と空間がもっと根本的な何かから生じているということを考慮しないとうまく話が進まないのです。

そして、この疑問に対処する、新しいアプローチが登場しています。
それが「因果集合理論」です。



時間と空間とはなんなのか?

今回の研究チームの一人、英国リバプール大学の物理学者ブルーノ・ベントー氏は時間の本質について研究を行っています。

彼は宇宙の始まりを考えるという今回の研究において、「因果集合理論」と呼ばれるものを採用しました。

あまり聞き馴染みのない理論ですが、「因果集合理論」とはどのような理論でしょうか?

現在の物理学では、時間や空間はなめらかに連続した布のようなものとして捉えられています。

こうした連続した時空では、2つの点は空間的に可能な限り近くに存在し、2つの事象は時間的に可能な限り近くで発生します。

しかし、「因果集合理論」では空間と時間をなめらかな連続につながったものとは考えていません。

この理論では、時空を極限まで分解していくと原子のような離散的(飛び飛びの値で変化する)な塊になると解釈しています。

つまり、時空には最小の基本単位が存在するというのです。




"映像が小さな画素の集合であるように、時空間も最小単位が因果で結ばれた集合かもしれない"

;映像が小さな画素の集合であるように、時空間も最小単位が因果で結ばれた集合かもしれない 


今この記事を読んでいる画面も、なめらかな一枚の画像に見えるでしょうが、当然虫眼鏡などで拡大すれば、それは小さな1ピクセルの画素が並んでいるものだとわかります。

空間も同様に分割されていて、その最小単位以上にはお互い近づくことができないかもしれないというのです。

この考え方の何が重要なのかというと、この理論に従った場合、ビッグバンやブラックホールのような特異点の問題がきれいに取り除くことができるからです。

なぜなら、この理論では時空を無限に小さく圧縮することが不可能だからです。

時空には最小単位の「時空の原子」があり、その大きさを超えて小さくなることはありえないため、特異点が存在しなくなるのです。


では、ビッグバンに特異点がない場合、宇宙の始まりはどのようなものになるのでしょうか?



ビッグバンは通過点に過ぎない


ベントー氏は、因果集合理論が宇宙の最初の瞬間をどのように表現するか、インペリアル・カレッジ・ロンドンのスタブ・ザレル氏と共同で研究を勧めました。


従来の因果集合理論では、因果集合は無から生じて現在の宇宙まで成長したとされています。

しかし、彼らは、そもそも因果集合に始まりが必要かどうかということを検討しました。


すると、彼らの研究では、因果集合は過去に向かって無限に続き、常に前に何かがある状態となり、ビッグバンという始まりは存在しないことがわかったのです。

彼らの理論によれば、私たちがビッグバンと認識しているものは、この常に存在する因果集合の進化における特定の瞬間に過ぎず、真の始まりではなかった可能性があるとのこと。

ただ、この理論はまだ少数の物理学者が注目する理論でしかなく、論文も査読付き科学雑誌への掲載はまだ決まっていません。

宇宙の過去が無限にあるということが、物理的に何を意味しているのかも、まだよくわかりません。

とはいえ、宇宙に始まりがないということは、少なくとも数学的には可能なことなのです。


コメント (3)
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新兵にチャンと敵兵を殺させること>軍隊の最重要課題

2025年02月12日 22時03分48秒 | メンタルヘルスのこと>心の健康

どのように訓練されても、どのような大義名分があったとしても、直接的な怨みも何もない人間、自分と同じように親子・兄弟・友人に囲まれて生き、休日には家族そろって出かけ、いつかは年老いてこの世を去るであろう一人の人間を、われわれは心情的に殺せないのである。

そして、もし殺した場合にはその経験は深いトラウマとなり、その克服に残りの人生の多くの部分、あるいは全てを費やす事になる。


人殺しはどれくらい難しいか? (2007年12月18日)


第二次世界大戦中、日本軍・ドイツ軍と戦った米兵のライフル銃兵のうち、実際に敵に向かって発砲したのは全体の15~20パーセントに過ぎなかった。残りの8割は引き金さえ引かなかったか、故意に目標をそらして発砲した。にわかには信じがたい事実だが、この数字が示す「戦わない兵士の多さ」は、ナポレオン戦争や南北戦争ほか古今東西の戦いを通じて観察される事象だという。

極端な例では兵士の練達度、銃の性能から推定される殺傷能力の100分の1程度しか軍隊としての能力が発揮されていない。射撃練習用の標的とは違い、生きて呼吸をしている敵に相対すると、ほとんどの兵士は相手に向けて発砲できないのである。

デーブ・グロスマン著『戦争における「人殺し」の心理学』は、戦争の前線においてさえ、殺人という行為がわれわれにとっていかに困難なものであるか、また国や軍隊がいかにしてこれを可能にし効率的に行わせようとしているかを、過去の研究成果とインタビューの結果を元に説いている。


戦闘直後のイスラエル軍兵士に対する調査において「何が一番恐ろしかったか」という問いに対して、「死ぬこと」「負傷すること」よりも「ほかの人間を死なせること」という答えの比重が高かった。

これに対し戦闘体験のないスウェーデンの平和維持群の回答の多くは「死と負傷」だった。これは戦場が決して想像できない場所であることをわれわれに教えてくれる。

アクション映画やサスペンスドラマでは(そこが戦場でなくとも)いとも簡単に人が殺したり殺されたりている。われわれ非戦闘体験者は、軍隊に入って訓練を積み前線に送られれば、敵に殺されるのが怖いし、またその怖さから敵に出会えば誰でも敵を殺傷できると思いがちだ。しかし実際はその逆である。兵士にとっては「殺される恐怖」より「殺す恐怖」「失敗する恐怖」の方が重荷なのである。

戦争における殺人に対する拒否反応を軽減する要素・方法はいくつかある。相手との物理的距離(遠いほど殺人が可能になりトラウマにもなりにくい)、集団との自己同一化(心理的つながりが強いほど殺人が行われやすい)、権威者の要求(同左)など。また、心理的なものには文化的・倫理的・社会的・機械的距離が関係する。

「あいつらは畜生以下だ」「これは復讐だ」という思い込みや刷り込み。画面モニターや暗視装置など人間をゲーム感覚で殺傷できる機器の発達など。

また、第二次世界大戦後「戦わない兵士」を戦わせるための訓練方法が確立したという。脱感作とオペラント条件付けだ。脱感作とはもともとアレルギーの原因物質を少量注射して過敏性をなくす治療法だ。

たとえば訓練の過程で兵士たちは「殺せ、殺せ」と連呼しながら走らされる。他にもあの手この手で敵の痛みに対して慣れ、鈍感になるよう作り変えられる。オペラント条件付けは飴とムチによる矯正方法といえる。射撃演習において実際の人間そっくりの的を効率よく倒すと、報酬が与えられ、顕彰される。逆に失敗すると軽い刑罰が与えられるなど。これらの現代的プログラムを導入した軍隊の殺傷能力は飛躍的に向上している。ベトナム戦争では兵士の発砲率は90パーセントを超えた

しかし、どのように訓練されても、どのような大義名分があったとしても、直接的な怨みも何もない人間、自分と同じように親子・兄弟・友人に囲まれて生き、休日には家族そろって出かけ、いつかは年老いてこの世を去るであろう一人の人間を、われわれは心情的に殺せないのである。そして、もし殺した場合にはその経験は深いトラウマとなり、その克服に残りの人生の多くの部分、あるいは全てを費やす事になる。


私は四五[口径]を持っていた。それをぶっ放したとき、相手の銃剣の切っ先はいまのあなたと私ほども離れていなかった。すべて片づいたあと、情報収集のためその兵士の遺体の調査を手伝いました。それで写真を見つけたんですよ。―中略― 細君と、ふたりのかわいい子供が写っていました。それ以来 ―中略― 頭について離れんのですよあのかわいい子供たちは父親なしで育ったんだ、それというのも私が殺してしまったからだと。私はもう若くはない。まもなく自分の所業について神に申し開きをせねばならんのです(第二次世界大戦中南太平洋で日本兵を撃ち殺した退役軍人の話より p.262)

この本は戦争反対を主張するものではないし、逆に軍事行為の正統性を主張するものではない。戦場という異常な環境に置かれた人間の心理を冷静に収集・分析することで、戦争がいかなる行為であるかをわれわれに考えさせる。

ベトナム戦争後半から終結時にアメリカ世論が反戦一色になった際、帰還兵はパレードで歓迎されるどころか、人々に(実際に)唾を吐きかけられた。戦地のトラウマを引きずり自らの人間性を否定する泥沼の精神的状態にあった兵隊たちに対し、歓迎と受容と励ましで自己肯定を与え彼らを救う事ができたはずの国民。その国民のむごい仕打ちは彼らのその後の人生を破壊し、それにより少なくとも50万人のベトナム帰還兵がPTSDに苦しむことになった。著者はその責任を政府・国民に問うている。言葉は冷静だが糾弾と言っていいだろう。
私は崖を飛びおり、死にかかっている男に駆け寄った。助けたかったのか、とどめを刺すつもりだったのか、よくわからない。なぜかわからないが、見ておかなければならないという気がしたのだ。どんなやつで、どんなふうに死んでゆくのか。 ―中略― 聞こえるのは、死んだ男の血が泡立ちながら地面にしみこんで行くかすかな音だけだ。目は開いたままだった。まだ幼さの残る顔。何だかひどく穏やかな表情だった。こいつの戦争は終わったのだ。だが、私の戦争は始まったばかりだった。傷口からどくどくと流れ出る血が、死体のまわりに黒っぽく丸いしみを広げてゆく。こいつが生命を失くしたように、おれは永遠に無垢を失くしたんだと思った。こうして私ははるばるベトナムにやって来たのだった。立ち去る日が来るのかどうか分からなかった。いまもわからない。小隊の残りがその高台に到着したとき、私は焚き火の側面に茂みを見つけて、そこで激しく吐いた。(スティーブ・バンコ「駆け出し歩兵、無垢の喪失」より p.452)


この本は文庫本にして500ページある。過去の発表をまとめきれずに重複している記述も多いが、飛ばし読みをさせない情熱と勇気、冷静さと気迫に満ちており、真摯な態度には襟を正される思いがする。唯一、締めくくりの章で、現代アメリカの犯罪・社会的病巣とシューティングゲームや暴力的な映画を関連づける試みは科学的論拠に裏付けが乏しく、少々強引に感じさせた。それが残念だ。

デーブ・グロスマン/著 安原和見/訳 『戦争における「人殺し」の心理学』(筑摩書房 2004)[b Cg/Ku8/1] (原書 “On killing: the psychological cost of learning to kill in war and society.”)
追記(2008年5月17日)
先日、内村鑑三著『よろづ短言』の中に戦場の兵士に関する以下の一節を見つけたので追記しておく。
露國兵卒の述懐:露國兵卒の一人、曾て露土戦争に出て土國兵卒の一人を銃殺し、彼れ亦傷を負ふて其傍に仆る、幾干もなくして彼れ看護卒の發見する處となり、擔かれて味方の陣に歸り、終に聖彼得堡の病院に輸送さる、病床に在て彼れ感覺を回復するや、頻りに彼の殺せし土國の兵卒の事を思ふて歇まず、彼の傍に在りし人々に告げて曰く「余は余が銃劒を以て刺殺せしかの土國の靑年に對して何の怨恨をも抱かず、彼れ亦余に對して何の怨恨あるなし、然るに余は露國人にして彼は土耳古人なりしが故に、我等徴せられて戦場に出て、劒を以て相争ひ、彼は余を傷つけ、余は彼を殺したり、想へば何の理由ありて余はかの好個の靑年を殺せし乎を知らず、若し戦場以外に於て余彼れと遭遇せん乎、我等両人は最も好き友人となりしならん嗚呼忌むべきは戦争なるかな、余の傷平癒する後は余は終生戦争の廢止を唱へて歇まざるべし」と、知らず同一の感を懐く者は遼東の野に支那人を刺殺せし我が兵卒の中にも有るや無きや。(内村鑑三『よろづ短言』より p.396)


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都立校の未来図「小石川」が日比谷・西・国立を抜く日

2025年02月12日 21時03分09秒 | 受験のこと



都立校の未来図「小石川」が日比谷・西・国立を抜く日


(ダイヤモンド・オンライン) - Yahoo!ニュース 


都立校の未来図「小石川」が日比谷・西・国立を抜く日
2/24(金) 6:01配信 2023
21コメント21件

都立校の代表的な存在となった「小石川中等教育学校」(東京・文京区)

 2023年の首都圏中学入試は、少子化の進展にもかかわらず、さらに競争が激化した。全国平均では公立中学校以外への進学率は7%強にすぎないが、東京は25%と圧倒的に高い。東京都教育委員会は、都立高校の未来をどのように描いているのだろうか。(ダイヤモンド社教育情報) 

【「1960年の東大合格者数ランキング」など図版はこちら】 

● 頂点から谷間に転げ落ちた都立高校  

図1には、都立高校の全盛期である1960年の東京大合格者数ランキングを示した。ベスト5はすべて都立高校で、上位20校の半分は都立高校が占めている。東京男子御三家や東京教育大学(現・筑波大学)附属駒場、灘といった現在も上位に入る私立・国立の男子校が、この時すでにランクインしていることも興味深い。団塊の世代に至るまでの大学入試過熱化への対応として、67年に学校群制度が東京で導入されたことにより、都立進学校の人気は地に落ちた。

  後述するように、都立高校改革で見直しが図られていくものの、私立中高一貫校に奪われた地位を奪い返すことは至難の業で、2022年の同様のランキングは日比谷だけがランクインしているような状況にある。 


 22年4月現在、東京都内には五つの都立と一つの区立の中等教育学校、186の都立高校(うち5校は中学校を付設)があり、約9500人の教員と約13万人の生徒がそこにいる。都内の公立中学卒業生の高校進学率は97.6%に達している。 

 86年度に約15万7000人でピークを迎えた公立中卒業生の数は、05年度には約7万3000人と半減している。団塊ジュニア層などを受け入れるため都立高校が新設されていったものの、将来的な生徒数の減少を見越して「都立高校改革推進計画」(07年)などで示されたように、都立高校の統廃合や新しいタイプの学校の設置が進められてきた。  

学区が撤廃され、学校選択幅が多様化されたその背景には何があったのか。旧学区ごとに都立高校がどのような状況にあるのかを連載したことがある(旧1学区、旧2学区、旧3・4学区、旧5・6学区、旧7~10学区)。60年の東大合格者数ランキング、そして図2・図3で示した都立高校「国公立100大学合格力」ランキングなども併せ見ることで、都立進学校の将来について考えてみたい。

  戦前においては、ナンバースクールといわれた旧制府立中学校が大学進学では圧倒的な存在だった。その後身である日比谷(旧制一中)、立川(二中)、両国(三中)、戸山(四中)、小石川(五中)などは、新制高校になってからも、名門進学校としての地位を保ってきた。図1「1960年の東大合格者数ランキング」をご覧いただくと、かつての都立高校の進学力の高さを実感できるだろう。 

18歳人口がピークを過ぎた50年代生まれのポスト団塊の世代は、67年から採用された学校群により、第一学区の日比谷は九段(旧第一市立中)、三田(旧府立第六高等女学校)と同じ第11群となり、どの学校に進むかはくじ引きの運次第となってしまった。その結果、学力上位層は国立大の付属校や私立難関進学校といった中高一貫校に進むようになった。日比谷の東大合格者数は、93年に1人となるほど凋落していった。


  学校群以前の名門都立高校には、参考書の著者として、全国的に名をはせる名物教員も多数いた。日比谷の英語科教員だった森一郎による超ベストセラー『試験にでる英単語』は、くしくも67年に世に出ている。学校群の導入と並行して、都立高校教員のアルバイトは禁ぜられていく。 

 当時の教育長は「富士山ではなく八ヶ岳を目指す」とは言ったものの、結果として名前も判然としないような山並みに都立高校はなってしまった。同じ頃、予備校の講師というアルバイトをやはり禁じられた都立高校の教員も、学校を辞めて専任講師になるなど、岐路に立たされていく。


以下はリンクで、



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【八潮・道路陥没事故】74才トラック運転手の素顔は“孫家族と暮らす寡黙な仕事人”「2人のひ孫の手を引いてしょっちゅう散歩していました」幸せな大家族の無念

2025年02月12日 20時01分57秒 | 事件と事故

【八潮・道路陥没事故】74才トラック運転手の素顔は“孫家族と暮らす寡黙な仕事人”「2人のひ孫の手を引いてしょっちゅう散歩していました」幸せな大家族の無念(NEWSポストセブン) - Yahoo!ニュース 



【八潮・道路陥没事故】74才トラック運転手の素顔は“孫家族と暮らす寡黙な仕事人”「2人のひ孫の手を引いてしょっちゅう散歩していました」幸せな大家族の無念
2/6(木) 7:15配信2025


NEWSポストセブン
事故発生から1週間が経過した現在も救出活動が続いている(写真/共同通信社)


「ただただショックで……一体、何が起こったのか。現場にも行けていないので、心配しています」。埼玉県八潮市の県道が陥没してトラックが転落した事故は、発生から1週間が経過した2月4日現在も救出活動が続いている。74才の運転手・Bさんの孫の男性は、困惑気味に心境を明かした。


【写真】事故発生から1週間が経過した現在の現場。他、現場近辺のアスファルトに見られた「ヒビ割れ」の数々なども


 頑丈なはずのコンクリートの地面に大穴があく──予想だにしない事故が起きたのは、1月28日の午前9時40分頃だった。


「交差点の一部分が突然陥没し、走行中だったトラックがブレーキを踏む間もなく、正面から突っ込むような形でほぼ垂直に転落しました。地中約15mを走る下水道管の、腐食による破損が原因とみられています」(消防関係者


 事故発生後に駆け付けた救急隊員が穴の中に入り、Bさんが運転席に閉じ込められていることを確認。隊員とBさんは言葉を交わし、すぐに救助活動が開始されたが、作業は難航した。


「運転席の大部分が土砂に埋まり、ドアを開けることができない状態でした。後ろの窓からの救出を試みましたが、その作業中に穴の内部で崩落が発生。隊員が負傷し、2次被害の危険性が高いとして救助活動を中断せざるを得ませんでした。その後の内部崩落で運転席部分が完全に土砂に埋まり、事故発生から3時間後のやりとりを最後にBさんとの会話が途絶えました」(前出・消防関係者)


 悲痛さを隠せないのは、冒頭の孫やBさんの知人だ。事故現場から車で1時間ほどの場所にある住宅街。Bさんが暮らす白を基調とした一戸建てには、いつも賑やかな笑い声が響いていたという。知人が明かす。


「ここに引っ越してきたのは10年以上前かしら。娘さんと、もう大きいお孫さん2人と一緒でした。しばらくするとお孫さんの1人が結婚したんですが、結婚後もここで同居を続け、“三世帯生活”が始まったんです」


 その「結婚した孫」が、冒頭で心境を明かした男性だ。知人が続ける。


「そのお孫さんに2人の子供が生まれて、Bさんは“ひいおじいちゃん”になったんです。もともとお孫さん思いのかただったので、ひ孫となれば一層かわいかったんじゃないかな。両手で2人のひ孫の手を引いて、近所をしょっちゅう散歩していました。誰が見ても、幸せな大家族でしたよ」


 30年以上の経験を持つベテラン運転手だったBさんは、深夜3時前後に仕事に向かい、昼過ぎに帰宅する生活を送っていたという。


「ただ最近は忙しくしていたようで、夜まで帰ってこない日も増えていました。もともと寡黙な仕事人でしたが、ますます仕事一筋という感じだった。あの年で運転手を続けられるだけでもすごいのに、もしかしたら仕事量を増やしていたのかもしれません。ひ孫たちとも、まだまだ一緒に遊ぶつもりでいるんじゃないかな。一日でも早く、家族のもとに帰してあげてほしい」(別の知人)


 交差点を通過するタイミングが数秒でもずれていれば……無念の思いが募る。


※女性セブン2025年2月20・27日号










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静寂の境内です

2025年02月12日 19時03分19秒 | いろいろな出来事
今日は、誰もいない聖域でした







2・12・2022
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