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天皇家の先祖は「航海者」だった…考古学者の探求心をくすぐる「日本神話の3人の神」を巡るミステリー

2025年02月12日 09時03分35秒 | 皇室のこと

天皇家の先祖は「航海者」だった…考古学者の探求心をくすぐる「日本神話の3人の神」を巡るミステリー(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース 

■海を越えてきた神話の登場人物たち








天皇家の先祖は「航海者」だった…考古学者の探求心をくすぐる「日本神話の3人の神」を巡るミステリー
2/9(日) 17:17配信




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プレジデントオンライン
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/dimakig


2019年、天皇陛下は126代目天皇として即位された。世界でも最も古い王朝とされる日本の皇室のルーツはどこにあるのか。考古学者・森浩一さんの著書『日本神話の考古学』(角川新書)より、一部を紹介する――。


【図表】南九州の重要な古墳群


■神代の舞台として描かれている南九州


 “日向(ひゅうが)”神話とよばれているイワレヒコ(神武)以前の、いわゆる“神代”の三人のミコトたちの舞台として描かれている土地は、今日の宮崎県だけではなく、鹿児島県を含んだ地域であり、物語の展開のうえではむしろ鹿児島県、とくにその西南部の薩摩半島がひんぱんに登場する。これら南九州の土地は、いうまでもなく隼人(はやと)とよばれた集団の活躍するところでもあった。


 このように神話の展開のうえでは、南九州と天皇家の遠い先祖が不離一体の関係にあったのだが、それが神話のうえにとどまらず、実際になんらかの関係があったのか、それとも『古事記』(以下、『記』)・『日本書紀』(以下、『紀』)の編者たちの完全な創作であったのかについては、考古学や民俗学の資料、さらに南九州という土地柄や奈良時代以後の歴史の推移などをも十分に考慮してから、考えをまとめねばならない。それは容易なことではなかろう。


 本書の第8章でも少し述べたように、“完全な創作”とみるには無視できない考古学資料がある。といって、もちろん『記・紀』の物語の展開通りの史実があったということは、とうてい考えられない。そこでもう一度、南九州のいわゆる隼人の地域について、微細な資料に目を向けてみよう。


■「鵜戸の岩屋が国王の宮殿である」


 17世紀のはじめに日本で活躍したイエズス会の通事ジョアン・ロドリーゲスは、『日本教会史』のなかで、“日本人が住んだ最初の地方は九州の日向である。そこに最初の国王神武まで(もちろん東方への移住まで)が住んでいた。日向には鵜戸(うど)の岩屋という洞窟があって、そこが国王の宮殿である”という意味の文章を載せている(『大航海時代叢書9 日本教会史 上』岩波書店、1967年)。


 ロドリーゲスは、日本人の間で通事伴天連(つうじばてれん)とよばれた。つまり日本語に通暁していたのである。ということは直接、日本人からものを聞くことができた人であるから、彼が残した文章には貴重な情報があると私は考えている。


 見通しにすぎないけれども、南九州に天皇家の遠い先祖が根拠地をかまえていたことについてのロドリーゲスの知識は、『記・紀』を読むことから得ただけではなく、九州の人びとから得た伝説をまじえた話であったであろう。

■海を越えてきた神話の登場人物たち


 文明10年(1478)、臨済の僧であり名高い儒学者であった桂庵玄樹が薩摩に招かれ、いわゆる薩南学派を興した。この機会を利用して、彼は薩摩や日向の地の旅をしている。


 鵜戸を訪れたとき、“鵜戸廟(びょう)”に詣(もう)で、次のような臨場感にあふれた詩を残している(『島陰漁唱』、『島陰集』ともいう)。


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扶桑開闢(かいびゃく)帝王城 神武霊蹤(れいしょう)
今古驚定百龍燈照深夜 海濤打岸怒雷声
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 このように、宣教師たちが記録を残した以前にも、鵜戸の洞窟を神武の霊蹤、つまり聖跡とする神話と結びついた信仰があったことを知ることができる。


 南九州を舞台にしたニニギノ尊(ミコト)・ヒコホホデミノ尊・ウガヤフキアエズノ尊らの物語、さらにそれに関連して登場する塩土老翁(しおつちのをじ)の物語では、その地域の支配者層の人びとが海上交通によって遠隔地と交渉をする能力をもっていたり、あるいは遠隔地についての知識をもっていたり、ときには自らも異国と思われる遠隔地に出かける人として描かれていた。


 また豊玉姫(とよたまひめ)や玉依姫(たまよりひめ)などは、異郷から海を越えて南九州に至り、豊玉姫にいたってはウガヤフキアエズノ尊の出産を終えたのち、再び異郷に帰っている。


■航海者、あるいは海戦の指揮者だった


 このような行動は、イワレヒコ以後の天皇や皇后たちとは異なったものとして私には感じられる。とくに大和(やまと)の天皇や皇后たちは、わずかの例外を除くと、海を越えない人たちであった。


 その意味では、ウガヤフキアエズノ尊と海神の娘・玉依姫との間に生まれた四人の男子のうち、長子(五瀬命(いつせのみこと))は大阪湾で命を失い、次男(稲氷命(いないのみこと))は「妣(はは)の国として海原に入り」、三男(御毛沼命(みけぬのみこと))は「海の穂、つまり波を踏んで常世の国に渡る」などの行動をしている。


 これらの海原や常世の国についてはさまざまな解釈があるけれども、新羅(しらぎ)や南中国(華南(かなん))とみる説があり、私も異郷の地説が妥当であると考えている。つまり彼らは、航海者であったり、ときには海戦の指揮者として登場しているのである。

■神武天皇以後、日向は重視されず


 『延喜式』の神代三陵『紀』には、“神代”の三人のミコトたちについて、それぞれ名前のついた陵(みささぎ)に葬ったとする記事がある。ニニギノ尊を例にとると「筑紫の日向の可愛(え)(埃)の山陵(みささぎ)に葬る」とある。


 だが、いわゆる東征(東遷)以後の大和の天皇たちが、何かの重要事件にさいして、日向にあるはずの“神代三陵”に使者を派遣したという記事や、陵の修理や管理についての記事はまったくない。


 景行(けいこう)天皇の場合、『紀』では自ら九州に遠征をしたという設定になっていて、日向国では高屋宮(たかやのみや)という行宮(あんぐう)を作ったことになっている。


 高屋というのは、ヒコホホデミノ尊を葬った「日向の高屋山上陵(たかやのやまのうえのみささぎ)」の地名にあらわれている高屋のことであるとみてよかろう。だが物語のうえで、景行が神話のうえでの祖先の陵に詣でた話にはなっていない。


■平安時代の資料に記録されていたこと


 そればかりではない。平安時代前期にまとめられた『延喜式』にも、注目を要する記録がある。『延喜式』は、律令政府の運営上欠くことのできない慣習や規則を細かく記録した書物であるが、その21巻に諸陵寮の記録を含んでおり、神代三陵の記事がある。


 諸陵寮の冒頭には、日向埃山陵をはじめとする陵を列記し、そのいずれにも「日向国にある。陵戸なし」と書いている。


 『延喜式』では、一般に陵名のあとに所在地などを示している。たとえばイワレヒコ(神武)の場合は、


 (1)大和国高市(たかいち)郡にある、(2)兆域(ちょういき)は東西一町 南北二町、(3)守戸は五烟(えん)


 と詳細な記述がある。このような一般的な記載法に比べると、神代三陵については、国名はあるけれども(1)のような郡名がない。実際の陵墓の範囲や広さを示す(2)の記載がない。さらに天皇家にとって重要な先祖であるにもかかわらず、(3)の管理をする者の存在が認められない。


 これらから考えると、実際に該当する古墳があった可能性は少ないように感じられる。


■神代三陵があったのは宮崎県?鹿児島県?


 事実、『延喜式』でもこれらの神代三陵については、山城国葛野(かどの)郡(現・京都市上京区)にある田邑陵(たむらのみささぎ)(文徳天皇陵)の南原で祭るよう決められていた。その祭場の広さは東西・南北とも一町(約100メートル)で、奈良時代や平安時代の陵墓の兆域に比べるとたいへん狭い。


 それだけではなく、これらの三陵が「日向国にある」とする点にも問題がある。いうまでもなく、ここでの日向国とは大隅(おおすみ)や薩摩は含んでおらず、宮崎県のことである。


 考古学的な根拠は少ないけれども、主として地名や信仰によりながら、それまで宮崎県内にも神代三陵の候補地はあったにもかかわらず、政府は1874年(明治7)に、三陵のすべてを鹿児島県内に政治決定している。


 このことは、『延喜式』とはくい違うが、神話にあらわれた地名を重視するかぎり、やむをえない結論のように思える。


■なぜ「遠くから見るだけ」の存在だったのか


 このように整理してくると、問題点はかなり明らかになってくる。8世紀以前には日向国は大隅や薩摩の地を含んでいた。しかし、いわゆる神名帳の部分をはじめ、『延喜式』の全体の扱いでは、薩摩国と大隅国を日向国から分けて記述している。


 だから、実際に当時、神代三陵なるものがあったのであれば、『延喜式』では薩摩国にあると書いているはずであった。神代三陵が日向国にあるというのは、たぶんに精神的な存在であったからであろう。


 10世紀の段階でも、南九州にあるはずの神代三陵は、個々の場所が明確に掌握されていたのではなく、平安京近くの真原岡(まはらのおか)の田邑陵から遠く拝み見るという習慣があったことが知られるのである。


 どうして大和朝廷が神代三陵について関心を示さなかったのか、そこに何らかの史実が潜んでいるのか、それとも古代日本人の先祖観に関連するのか、これについては、さらに考察を深める必要がある。






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森 浩一(もり・こういち)
考古学者
1928年大阪市生まれ。日本考古学・日本文化史学専攻。同志社大学大学院修士課程修了、高校教諭、同志社大学講師を経て72年から同大学文学部教授。環日本海学や関東学など、地域を活性化する考古学の役割を確立した。著書に『古代史おさらい帖』『天皇陵古墳への招待』『倭人伝を読みなおす』(いずれも筑摩書房)、『僕が歩いた古代史への道』(角川文庫)『森浩一の考古交友録』(朝日新聞出版)、『敗者の古代史』『記紀の考古学』『日本神話の考古学』(いずれも角川新書)など多数。2012年第22回南方熊楠賞を受賞。13年8月逝去。










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