最近では、ロシアによるウクライナ侵攻について、二瓶さんに質問する見学者も増えているといい、二瓶さんは、「今、現地で逃げている子どもたちは、当時の私と同じような年ごろ。防空壕の中に入った女の子が『戦争は怖い、死ぬのはいやだ』と話す姿をニュースで見たが、大空襲があった3月10日とぴたっと重なる」と話し、そのうえで、「『戦争を知らない時代』と、もうそんなことを言ってられない。ウクライナや世界で、戦争は今も起きている。現地で何が起きているか、『知ろうとする世代』になってほしい」と訴えています。
2022
3・10・2022
およそ10万人が犠牲になった東京大空襲から10日で77年となります。
空襲の体験を語り継ぐ活動を続ける女性は「戦争は、ウクライナなど、世界で今も起きている。昔のことと思わずに、真実を知ろうとする気持ちを持ってほしい」と話しています。
空襲の体験を語り継ぐ活動を続ける女性は「戦争は、ウクライナなど、世界で今も起きている。昔のことと思わずに、真実を知ろうとする気持ちを持ってほしい」と話しています。
東京大空襲から77年となった10日、多くの人が亡くなった隅田川の言問橋では追悼集会が開かれ、空襲を体験した人や遺族らが犠牲者を悼みました。
集会に参加した、二瓶治代さん(85)は、8歳のときに東京・江東区の亀戸で東京大空襲を経験し、火の粉が降り注ぐなか、家族とはぐれ、ひとりで逃げまどったといいます。
火のついた子どもを背負って必死に走る人の姿や、消火しようと生きたまま炎に包まれていく人の姿を目にしながら、無我夢中で逃げた二瓶さんは、やがて気を失い、押し寄せる人波の下敷きになったといいます。
しかし、覆い重なった人たちの下にいたため、やけどを負わずに助かったといい、「私の上にいた人たちが、みんな真っ黒な炭になっているのを見て、焼き殺された人の下敷きになって助かったんだと分かった。そうやって、数時間、数分前まで生きていた人が炎に焼かれて亡くなっていったということを、その人たちの代わりに伝えることが生き残った私に託されていることのような気がする」と話します。
二瓶さんは、戦争を知らない世代にもその悲惨さを知ってほしいと、およそ20年にわたり、江東区にある施設、「東京大空襲・戦災資料センター」で、自身の体験を語り継ぐ活動などを続けています。
しかし、国分寺の自宅から施設までの移動は、電車とバスで2時間以上かかるため、高齢の体への負担も大きく、ことしから、週に2回だった頻度を1回に減らしました。
亡くなる空襲体験者も多く、「当時大人だった人はみんな亡くなり、戦争を語れるのは当時子どもだった私たちだけ。戦争や空襲で何があったか記憶だけでななく、記録に残していかないといけない」と話します。
最近では、ロシアによるウクライナ侵攻について、二瓶さんに質問する見学者も増えているといい、二瓶さんは、「今、現地で逃げている子どもたちは、当時の私と同じような年ごろ。防空壕の中に入った女の子が『戦争は怖い、死ぬのはいやだ』と話す姿をニュースで見たが、大空襲があった3月10日とぴたっと重なる」と話し、そのうえで、「『戦争を知らない時代』と、もうそんなことを言ってられない。ウクライナや世界で、戦争は今も起きている。現地で何が起きているか、『知ろうとする世代』になってほしい」と訴えています。
「東京大空襲」>1945年3月10日
「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲。「ミーティングハウス二号」[6]。Meetinghouse 2[7])を指す(77年前)[注 3][9][10][11]。この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えた[10]。なお、当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた[4]。