Ameba blog のきんちゃんさんからの転載です。
ご本人の許可を得て、転載いたしました。
きんちゃんは、岩手県三陸地方の田野畑村の漁師さんです。
311では大きな被害にあわれた経験を震災10周年にまとめられた力作です。ぜひ、ご一読ください。
3/11/2020
【3.11東日本大震災から今日で10年。「とても長かった道だったけど、もう10年なのか」という矛盾した感想になる訳とは 直後は戦禍のような悲惨な現実に唖然とした➠残してくれたのは「自分の人生の価値」を上げた多くの友だち達が大きな財産です】
「3.11東日本大震災から今日で10年」です。「10年といえば一昔」と良くいわれています。もう、ほんとに一昔なのかなあ。
罹災した自分の思い、2011年3月11日からこれまでを振り返るとひとことで言えば「とても長かった道だったけど、もう10年なのか」という、矛盾した感想になってしまう。
誰かに聴かれればそう答えるしかない。
これはきっと、自分の脳の中で、津波が来た時の衝撃が大きく、その時が鮮明に記憶の残っていて、それ以降の生活再建で大きな負債返済しなけばならないためにがむしゃらに働いて来たが、そっちの記憶が10年間であるから分散された記憶として残っているからかもしれません。
【震災前にまさか、自分の人生の中で津波で苦労するとは思っていなかったのです】
子供の頃から、親や周囲の人から「津波の恐ろしさ」については、ズッと聞かされて育ちました。でも、何故か自分が生きてる間には、津波が来るとは思っていなかったのです。
実際に、自分のお婆さんや叔父、叔母などが実際に津波でなくなっているのにです。私は小学生の頃から、昭和三陸地震の命日の3月3日を「津波記念日」として、毎年「津波非難訓練」をしてきていました。
しかも、先人達は、高い台にいろいろな石碑を建てており「地震があったら、津波が来ると思え」とか「津波の時はこれより高いところに上がれ」などと刻印されているのです。
このため、岩手県沿岸には海抜DL=8Mの津波防波堤があったのですが簡単の崩壊しました。
FNNニュース:
Tsunami surging to Kamaishi city office and surrounding area (Footage provided by viewer) The Japanese text is followed by an English translation. 岩手県釜石市を襲う津波の様子を捉えた映像。釜石市在住の山口貴廣氏が撮影。 地震から約40分後の午後3時25分ごろ、津波到達の知らせに騒然とする、釜石市役所(釜石市只越町3丁目)第二庁舎前の通り。避難を急ぐ人々に混じり、撮影者も、わずかに海抜の高い市役所の敷地内へ駆け上がり、カメラを南側遠方へ向ける。
すでに、150メートルほど離れた県道4号線付近で、波しぶきと噴霧が立ちのぼっていた。激しい水流に押し込まれたがれきや自動車が、あっという間に道路を埋め尽くす。港側(画面左・東方向)からの水流は、いつのまにか市役所に近い、辻(つじ)という辻から次々と出て、見る見るうちに勢いを増し、内陸部(画面右・西方向)へ流れていく。 やがて、市役所のつい目前まで激流が押し寄せ、人々の「逃げろ!」という声が飛び交う。撮影者も、さらに一段高い、市役所第一庁舎の入り口付近(当時工事中)まで駆け上がり、ここで撮影を中断した...。ーー以下略ーー
私の住んでいる三陸沿岸は、津波常習地域です。約80年に1回のペースで大きな津波が襲来しています。
【「三陸津波」の主な津波は以下の通】
・1611年12月2日に発生した慶長三陸地震による津波(慶長三陸津波)
・1896年6月15日に発生した明治三陸地震による津波(明治三陸津波)
(※岩手県にとってはこの津波が一番大きな津波です)
1933年3月3日に発生した昭和三陸地震による津波(昭和三陸津波)。
この3つの津波の震源地はいずれも岩手県沖です。
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そして、宮城県沖を震源とするM9の大地震で発生したのが10年前の
●2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による津波(東日本大震災、平成三陸津波)です。
つまり、丁度、自分が生きてるタイミンの中で津波が来たわけです。
1933年3月3日に発生した昭和三陸津波から78年目で、今思えばいつ来てもおかしくない次期だったのです。
この3月6日に、ニュージーランドと三陸津波の法則を書きました
【「要注意」ニュージーランドのM8.1巨大地震➠「NZと日本の法則」いつどこで起きてもおかしく日本】
過去の決まって、ニュージーランドの地震があれば、その後必ず日本でも大きな地震や津波が襲来しています。
この前、ニュージーランドで大きな地震がありました。だから、周期は関係なく、これで終わりという保証はなにもありません。
地震や津波は太平洋沿岸ならいつおきてもおかしくないのです。
<img alt="" height="296" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20210311/09/kin322000/1e/c1/j/o0600042314908576931.jpg?caw=800" width="420" class="PhotoSwipeImage" data-entry-id="12661662892" data-image-id="14908576931" data-image-order="5" data-amb-layout="fill-width">
【津波が来た直後。私は戦争は知りませんが、「戦禍のごとく」と表現しました】
瓦礫で、道も何もなくどうにか1本道ができて、デジカメを持ってできるところまで写真撮影してきました。
実際に、ネット上ではとても悲惨過ぎて公開できない写真が沢山あります。もう、首とか足とか腕とかないご遺体が瓦礫と一緒にありました。警察や自衛隊が入って来ていて、「遺体にはさわるな!」でしたので、親戚や知人であっても、そもままにしておくしかありませんでした。
ところが、夜になると黒い服の連中現れて、遺体の指や腕を切断して、貴金属を盗む、非常に悍ましい連中も現れました。
また、鉄骨など業者を装おって切断して盗む連中もいました。
マスコミは報道をほとんどしていないでしょうが、実際にそういうことがあったのです。火事場泥棒ではなく、津波泥棒です。
【辛かった、友人の遺体探しと、記憶に残るあの遺体仮置場の匂い】
友人の一人が行方不明となり、隣町まで探しに行きましたがあの広い体育館での、おびただしいご遺体の数で無造作に棺桶ではなく、ブルーシートにくるまれあったのです。
遺体と対面した、その遺族の泣き叫ぶ声やそれを諌める声。そこから離れようとしない姿がありました。
そして、線香を炊いてるために、遺体の匂いが混ざり独特な匂いがありました。 今でもその匂いが完璧に記憶に残っていて、たまにフラッシュバック(記憶の再現)する時があります。
【とにかく午前中はこれまでの日常と何も変わらぬ光景は、一瞬にして戦禍のようになったのです】
3月としては、とても寒い日で雪がちらつき、3センチ程度は積もっていました。無残な光景をまるで隠すかのような雪だったとおもいます。
みんなが、ただただ呆然として、あの時は不安とか先の事は考えなかったのです。 頭真っ白ってかんじですかね。
頭の中ではそういう、衝撃が大きく、その時が鮮明に記憶の残っていて、つい先日のように感じます。だから、短く感じるのでしょう。
【先の不安感はそのあとで、「自分たちはがどうやって生きていくのか?」方向を決めるかたに大きな決断が沢山ありました】
そういう「ショックはさておき」、前を見なけばと思ったのはいつだったのか?記憶がないですが、とにかく生きていてどうやって生きていくか?
大きな「不安のストレス」は半端ではなかったと記憶していますが、どうやって方向性を見出して、決断したのか定かではありません。
おそらく、外の被災者も同じような感じではなかったのかなあ。と思います。
自分の場合、幸い家族は無事非難し家も大規模半壊で二階で当面は生活しました。
自宅を失った人は避難所や親戚などの家に行きました。
「千年に一度の大きな災害」と言ってる割には、被災者への「国の支援策」などはなかなか決まらずでした。
この原因は前投稿したように野党自民党が民主党の足を引張り、政権復帰だけを優先させた国会戦略を立てていたからだったのです。
避難所でテレビを見ていて、被災者はみんな怒ったのです。
3ヶ月めの頃で、被災地では身元不明の遺体を土葬していた頃ですーー。
2011-06-10
(内容は割愛しますが、見出しの通りです。詳細はリンク先をご覧ください
【最高にありがたく嬉しかった。世界や全国の国民も方々の「思いやりの愛情ある心」いつしか「頑張れ東北」が「頑張れ日本」になり「絆」という言葉】
もう、直後からアメリカは「トモダチ作戦」で米軍が遺体捜査したり、瓦礫撤去をしました。
そして、全国から警察官も集まり、遺体安置と身元調査を邁進しました。
一番早かったのは自衛隊です。自衛隊は、不明者捜索をして、遺体収容から被災者への炊き出し、風呂などやってくれました。あの時はまるで、ヒーローに思い感激感謝し、とても頼もしかったことを鮮明に覚えています。
それと同時に、全国の国民の方々から支援物資が早く届きしました。世界からもです。ほんとに、政治はダメなのに国民は優しいと強く感じたことを覚えています。
そして、多くのボランティアさんが入ってきました。もう、感謝感激でした。今でも、残っているボランティアはます。中には被災地に永住した人もいます。 今も地域を引っ張るリーダー的な存在になっています。
【わたしにとって、失ったものはあるけれど、それよりももっと大きな財産ができました。それは、震災を通じて知り合った友です】
それは、みんな、いい人ばかりで今もその交流は続いています。
「災い転じて福となす」です。
私は、人生においての価値は、「どういう人間と知り合って友なるのか」で決まると、震災前から思っていました。
それを思うと、東日本大震災は人生でいろいろな経験もしたし、多くのっ素晴らしい友ができたことです。
これは、とてもありがたいことですし、心を寄せてくださった全ての人に感謝の言葉をいいたいです。
それは 「ありがとうございます!」です。
注>久しぶりに、きんちゃんブログをたずねると、
御病気でたいへんな状態のようです。
御平癒をお祈りするばかりです。