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カーテンない家を「全裸」でうろつく女性、外から見えてしまっても「のぞき」になる?

2024年03月10日 23時03分48秒 | 女と男のこと
関東地方で暮らす70代男性には最近、悩みがあります。隣家の女性が、彼女の家の中を全裸、あるいはパンツ一丁で過ごしているそうなのです。


「別に家の中でどんな格好をしようが良いと思うのですが、困るのは、隣の家には窓にカーテンがないことなんです」と話す男性。自宅の窓と隣家の窓が近いため、カーテンを開けると「嫌でも隣の家の中が見えてしまう」そうです。


必然的に裸でうろつく女性の姿も見えてしまうため、困った男性は隣家のポストに「お互いのプライバシーを守るため、窓にカーテンをつけていただけないでしょうか」という手紙を投函したそうです。


しかし、隣家にカーテンがつけられた気配はありません。男性は「もし今後も、見えてしまった場合には、こちらがのぞきで逮捕されてしまうのでは…」と心配しています。

はたして、男性が罪に問われることはあるのでしょうか。逆に隣家の女性に法的な責任はないのでしょうか。鐘ケ江啓司弁護士に聞きました。


●隣家の女性を「公然わいせつ罪」で立件できるか?


――男性が隣の家を窓からのぞいた場合、罪に問われる可能性はありますか?
男性の話の内容からすれば、のぞき見にあたらないでしょう。

「『のぞき見る』とは、物陰や隙間などからこっそり見ることをいう。何の作為もしないのに、 自然に見えてしまったような場合は、 『のぞき見る』には当たらない」(伊藤榮樹・勝丸允啓『軽犯罪法 新装第2版』(立花書房)とされています。迷惑防止条例ではのぞき見を規制しているところもありますが、同様に解釈されるでしょう。

軽犯罪法23条には、

「正当な理由がなくて人の住居、浴場、更衣場、便所その他人が通常衣服をつけないでいるような場所をひそかにのぞき見た者」とあります。


また、この「ひそかに」の要件も問題になります。「『ひそかに』とは、見られないことの利益を有する者に知られないようにすることをいう。」(同書)

とされていますが、ご投稿の話では見えることを伝えて注意しています。
現実的には、撮影でもしない限り問題になることはないでしょう。

――カーテンをせず、裸でうろつく隣家の女性が罪に問われる可能性は?


理屈上は、全裸については公然わいせつとされる可能性はあります。公然わいせつは「公然」と「わいせつ」な行為をすることが要件ですが、「屋内であっても、窓や戸をすべて開放し、近隣の人の目に触れるような状態にあれば、公然性を有するといえよう」(藤永幸治編集代表『シリーズ捜査実務全書9 風俗・性犯罪(3版)』(東京法令出版)と解されています。


半裸の場合、身体露出の罪(軽犯罪法)も理屈上はありえます。公衆の目に触れるような場所で公衆にけん悪の情を催させるような仕方でしり、 ももその他身体の一部をみだりに露出することが要件ですが、公衆の目に触れる場所については、「私人の居宅内であっても、容易に通行人の目に触れるような場所は、 これに当たるものといえる」(前掲『軽犯罪法 新装第2版』)。

実際に刑事事件として立件するのは難しい場合が多いと思いますが、もしあまり度重なるようでしたら、一度、警察に相談に行かれてもよいかもしれません。

取材協力弁護士

鐘ケ江 啓司(かねがえ・けいじ)弁護士刑事弁護、中小企業法務(労働問題、知的財産権問題、契約トラブル等)、交通事故、借地借家、相続・遺言、後見、離婚、犯罪被害者支援、等々幅広い事件を取り扱っている。執務のかたわら、条例による盗撮規制の研究をしており、全国47都道府県の警察本部が作成した迷惑行為防止条例の逐条解説を保有している。




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79年前の3月10日>12万人殺害「東京大空襲」指揮の米軍司令官に良心の呵責はあったか

2024年03月10日 20時03分50秒 | 歴史的なできごと



2023

【検証】12万人殺害「東京大空襲」指揮の米軍司令官に良心の呵責はあったか(ダイヤモンド・オンライン) - Yahoo!ニュース 



【検証】12万人殺害「東京大空襲」指揮の米軍司令官に良心の呵責はあったか
3/10(金) 6:01配信
92コメント92件

爆撃の中心地として狙われた台東区、墨田区、江東区は、たちまち火の海になった。夜中に突然、地獄にたたき落とされた人々は、炎で焼かれ、窒息して倒れていった。燃え広がる地域に対して、爆撃は2時間半にわたって容赦なく続けられた。東京の下町に暮らす130万人が、逃げ場のない火の海に包まれた

>「アーノルドは、3月10日の空爆のあと、私宛に電報を送ってくれました。彼からの電報には『東京空爆の成功、おめでとう。この任務で、君たちはどんなことでもやってのける度胸があることを証明した』とありました。私は、空爆後の東京の写真をアーノルドに送り返しました」(肉声テープより)


Photo:Universal History Archive/gettyimages

 東京大空襲を指揮したのは当時38歳だったカーチス・ルメイ大佐。1945年3月10日の深夜、米軍のB-29による爆撃で、一夜にして12万人の命が失われたと言われている(正確な数字はいまだに判明していない)。非人道的な人物として語られることの多いルメイだが、実際、東京大空襲にどのような感情を抱いていたのだろうか。上官に当たる空軍の父と称されるヘンリー・アーノルドからのプレッシャーはいかほどだったのか。検証していく。

 【この記事の画像を見る】 ※本稿は、鈴木冬悠人『日本大空襲「実行犯」の告白~なぜ46万人は殺されたのか』(新潮新書)の一部を抜粋・編集したものです。

 ● 一晩で東京下町の130万人が火の海に

大空襲実行のルメイは何を思ったのか  

1945年3月9日の夕方。325機のB-29が出撃準備をしていた。より多くの爆弾を積むため、機関銃などの戦闘火器はすべて取り外された。一機当たりの平均爆弾搭載量は、通常の3倍にもなった。あわせて1600トンを超える焼夷弾が積み込まれ、過去最大の空爆作戦が行われようとしていた。標的は、東京の市街地。アーノルドらが水面下で準備してきた焼夷弾空爆計画が、ついに実行されることになる。ルメイは、この空爆作戦を実行するにあたり、誰の許可も取ろうとしなかったという。 

 「アーノルドには、話をせずに実行するつもりだった。もしアーノルドの許可をもらったのに失敗したら、アーノルドの責任になるだろう。黙って実行すれば失敗しても『愚かな部下が勝手に暴挙に出たから彼を首にした』と言って、他の誰かに私の任務を引き継がせ、B-29の作戦は続けられる。アーノルドに迷惑をかけることだけは避けたかった。それは誰のものでもなく、私の決断であり、私の責任である。この作戦にかかっていたのは、アーノルドの首ではなく、私の首だったのだ。だから、自分で実行することに決めた」(肉声テープより)  

航空軍の命運を賭けた空爆作戦。ルメイは、1人で責任を背負い込んだ。過去に例がない300機を超える大規模な攻撃。搭乗員たちは緊張と不安を抱えていた。低空飛行の戦術は、諸刃の剣だった。特に、ヨーロッパでの空爆作戦を経験していた隊員にとっては、低空飛行でドイツ空軍の餌食となった記憶を思い起こさせた。今回の作戦も、うまくいく保証はない。それでもルメイは作戦を決行する。 

 午後6時15分。B-29が一機、また一機と飛び立っていった。先頭を飛んで目標に指示弾を投下する爆撃先導機には、最も優秀で経験豊富なメンバーを配置した。ルメイは、士気を向上させるために目標上空まで部下を率いようとしたが、機密保持のために認められなかった。万が一にも撃墜されて、捕虜になることを防ぐことが優先された。このとき、ルメイはすでに原爆の概要を聞いていたからだった。「爆弾投下」の第一報を、グアムの基地で待つことになった。東京到着は、夜中になると見られていた。作戦を中枢で担った参謀や将校たちには、仮眠を取るよう命じた。だが、ルメイは、眠れなかった。不確定要素が多く、気持ちが落ち着かなかったという。作戦司令室のベンチに腰掛け、そのときを待った。


3/10(金) 6:01配信
93コメント93件

 日付が変わった3月10日午前1時21分。出撃から7時間あまりが経った頃だった。ルメイのもとに、「第一弾を投下した」という報告が入る。東京大空襲が始まったのだ。東京上空に到達したB-29は、大量の焼夷弾を投下した。その数、32万7000発。夜間空襲にもかかわらず、辺り一帯が昼間のような明るさとなった。燃え盛る炎は、大量の酸素を飲み込みながら、凄まじい上昇気流を発生させた。爆撃の中心地として狙われた台東区、墨田区、江東区は、たちまち火の海になった。夜中に突然、地獄にたたき落とされた人々は、炎で焼かれ、窒息して倒れていった。燃え広がる地域に対して、爆撃は2時間半にわたって容赦なく続けられた。東京の下町に暮らす130万人が、逃げ場のない火の海に包まれた。 

 非人道的な空爆を行う軍人たちは、無差別爆撃をどのように受け入れるのか。ルメイは自伝の中で、道義的な責任を押し殺していたと打ち明けている。

  「大量の爆弾を投下するときに、わずかでも想像力があることは、不幸なことである。崩れ落ちる1トンものガレキが、ベッドで眠りにつこうとする子どもを下敷きにしたり、火傷を負って『ママ、ママ』と泣いている3歳の女の子の恐ろしいイメージが頭をよぎってしまうからだ。だが、正気を保ちたいと思うなら、また、祖国に求められている任務を実行しようと思うならば、そうした想像から目を背けなければならない」 

 一夜にして、下町の住民のほとんどが被災した。東京大空襲の犠牲者は12万人とも言われているが、今も、正確な数字はわかっていない。 

 空軍独立という野望を抱いていた航空軍は、太平洋戦争で戦果を上げなければならなかった。ルーズベルト大統領は、30億ドルという巨額の開発費をかけたB-29が、戦争で決定的な仕事をしたと証明しなければならなかった。国民は、戦争を早く終わらせてほしいと願い、降伏しない日本に対する強力な攻撃を求めていた。それらの要素すべてが、無差別爆撃へとつながっていった。

  東京大空襲がもたらした結果は、すぐにアーノルドのもとに報告された。ルメイは、一報を受けたアーノルドが非常に満足していたため、安堵したと振り返っている。 

 「アーノルドは、3月10日の空爆のあと、私宛に電報を送ってくれました。彼からの電報には『東京空爆の成功、おめでとう。この任務で、君たちはどんなことでもやってのける度胸があることを証明した』とありました。私は、空爆後の東京の写真をアーノルドに送り返しました」(肉声テープより) 

 アメリカ国内にも、東京を火の海にしたことが大々的に伝えられる。新聞の紙面には「記録的な空爆」「東京は焼夷弾で荒廃した」と成果を称える言葉が並んでいた。 

● 空爆一時停止の理由を 笑いながら話すルメイ 

 ルメイは、東京の被害を記録した写真を見たときの思いを自伝に書き残している。  

「東京は跡形もなかった。かつてないほど激しい攻撃だったらしい。私は居心地の悪さを感じていたが、アーノルドは非常に満足していた。東京への空爆は必要以上だった。もうこれ以上の殺戮行為も次のミッションもしたくなかった」 

 だが、その後もルメイは焼夷弾による無差別爆撃を続けていく。3月12日には名古屋。13日には大阪。17日には神戸。19日には再び名古屋。B-29は、次々と大都市を焼き払っていった。これらの焼夷弾爆撃で、さらに1万人以上の命が犠牲となった。 

 3月10日~19日までにターゲットとなった都市はすべて1943年に作成されていた「日本焼夷弾空爆データ」で計画されていた主要攻撃目標と一致する。計画に基づいて空爆するならば、まだ広島や福岡などが残されていた。


  しかし、立て続けに実行された大都市への焼夷弾爆撃は、19日の名古屋を最後に、突然、パタリと止まる。いったい、何があったのか。ルメイは、肉声テープの中で、笑いながらその理由を明かしている


「私たちは、東京を空爆したあと、とにかく可能な限り早く他の都市を爆撃した。日本軍が低空の対空砲火を準備するなどの対策を考えて反撃してくる前に、徹底的にやりたかったからだ。だが、爆撃を中止にした。なぜだかわかるか?」 


 「(インタビュアー)いいえ、わかりません」

 「焼夷弾が切れたからだ」

  ルメイは10日間にわたる都市への空爆で、焼夷弾192万発を使用。備蓄していた焼夷弾をすべて使い切ってしまったのだ。ルメイは、兵站を担当していた海軍をけしかけ、焼夷弾の補充を急がせたという。  

「私たちは、海軍のニミッツに『これまでの4倍出撃する』と伝え、煽りました。『爆弾がなければ釣りをするしかないが、いいのか』と。兵站を担当する海軍の人間が、大慌てで準備してくれたので、ほぼ1カ月で補充できた」(肉声テープより

 ● アーノルドからルメイへ 空爆継続促す手紙  およそひと月後、ルメイは大都市への焼夷弾爆撃を再開する。  

なぜ、ルメイは、“これ以上、殺戮行為をしたくない”と感じながらも、焼夷弾爆撃をやめられなかったのか。伝記作家のウォーレン・コザックさんは、ルメイにはやめることができない、ある理由があったのだという。  

「東京大空襲のあと、アーノルドからルメイに送られた“おめでとう。どんなことでもやってのける度胸がある”という言葉は、額面通りの祝福を意味する言葉ではありませんでした。それは、ルメイに“他の都市を焼夷弾で攻撃し続けろ”という作戦への青信号、GOサインでした。そのまま作戦を続けろ、大丈夫だという意味だったのです」 

 東京大空襲の結果こそ、望んでいた戦果だと喜んだアーノルド。日本との戦争で航空軍が存在感を示す方法を、ついに手にしたと考えていた。このあとアーノルドら航空軍は、B-29を使った焼夷弾による無差別爆撃を戦略の柱に据え、一般市民を犠牲にする非人道的な空爆を繰り返すことになる。








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March 10, 1945>東京大空襲79年 「水をください」すがる女性から逃げた 今も頭離れず…東京の甚野年子さん

2024年03月10日 19時03分03秒 | 歴史的なできごと
東京大空襲75年 「水をください」すがる女性から逃げた 今も頭離れず…東京の甚野年子さん




3・10・2024
東京都墨田区の竪川(たてかわ)にかかる牡丹橋の上で、甚野年子さん(88)=同区向島=は黙って手を合わせた。



【写真でみる】親柱だけが当時の面影を残す牡丹橋


 竪川は暗渠(あんきょ)になり、川べりとの区別はつかない。親柱だけが、かろうじて橋や川の存在をうかがわせる。真上に首都高速道路の高架があり、昼間でも薄暗い。

 あの頃は明るく、川はよく見えた。川面には油が浮き、黒く焦げたマネキンのような死体が一面、埋め尽くしていた。75年前の3月10日未明、米国は付近一帯を無差別に爆撃した。東京大空襲だ。


 女学校の2年生だった甚野さんも、火の中を必死で逃げた。翌朝、まだくすぶっている焼け野原の中、幼い弟を背負い、どこへ行くともなくさまよった。

 ちょうど、牡丹橋に差し掛かったときだった。

 焼け焦げた着物をまとった若い女性が「水をください」とはってきた。足をつかまれそうになり、思わずよけてしまった。女性の髪は乱れ切り、怖かった。

 街は死体であふれていた。悲惨な光景には慣れたはずなのに、逃げるように立ち去ったことが、今も頭を離れないという。

 甚野さんの実家は戦前、本所区(現墨田区)で製材業を営んでいた。一家で疎開する友人もいたが、商売上難しかった。4人いる弟妹のうち、両親は2人だけ奥多摩の親族の家に疎開させた。実家には両親と甚野さん、それに3歳と1歳の弟2人が残った。

 女学校は戦争末期にまともな授業はなく、学徒動員で薬莢(やっきょう)検査に明け暮れた。昭和19年末から、東京はたびたび米軍の空襲に見舞われるようになった。次はいよいよ-。漠然とした覚悟と、不安だけがあった。

 20年3月9日夜、空襲警報のサイレンが鳴った。だが、すぐに「敵機遁走(とんそう)せり」の放送とともに、解除された。万一に備え、居間の床下を掘り下げた即席の防空壕に、服を着たままもぐりこんだ。

 大きなサイレン音と、飛行機の爆音で目が覚めた。この防空壕では、本格的な空襲に耐えられない。3歳の弟の手を引き、両親とともに家を飛び出した。

 B29が迫ってきた。「民家の屋根すれすれに飛んでくるように見えました。実際はそんな高さで飛ぶはずないですから、怖さでそう見えたんでしょうね」

 降ってくる焼夷弾(しょういだん)で、花火が打ち上げられたように明るくなった。自宅の向かいにあった町内会の防空壕に飛び込んだが、あちこちに火の手が上がり、父の判断でまた逃げ始めた。

 バリバリとトタン屋根の工場が燃え、道路や橋の上にゴーゴーと火の粉が舞い上がった。ヒュルヒュルと焼夷弾が落ち、時折高射砲の破裂音も響く。人の悲鳴は間断なく聞こえた。

 弟はいつの間にかおぶっていた。両手で父と母の手をしっかり握った。火に追われるように走っていると、石造りの納豆室が見えた。ここなら安全だろうと全員で飛び込んだ。

 8畳もないくらいの空間に20人以上がいた。吹き込む熱風を食い止めるため、父たち男性陣は大きな板で出入り口をふさいだ。体で板を押さえ込んだが、隙間から火の粉が舞い込んでくる。甚野さんも靴を脱ぎ、一晩中火の粉をたたいた。

 板の隙間から、牡丹橋の親柱が見えた。熱風をよけていたのだろう。親柱の陰に人々が一列になって隠れていた。風向きが変わるたび、列は左右にうねった。のんきに考える余裕はなかったはずなのに、「金魚のふんみたいだ」と思った。

 翌朝、弟を背負って外に出た。一面焼け野原だった。牡丹橋で水を求めてきた女性に、どうすることもできず立ち去った。

 あちこちに転がる死体はどれも、黒いマネキンのようだった。四つん這いの塊と、その下に小さな塊があった。子供を守ろうとした親に違いない。今なら涙を流せるのかもしれないが、何も感じなかった。

 幸い、一家は皆、無事だった。奥多摩の親族宅に一時的に身を寄せ、再び墨田区に戻った。戦後、嫁いでからも墨田に住み続け、今では孫8人とひ孫6人に囲まれている。

 毎年3月、牡丹橋などでひっそりと供養を続けていたが、最近まで空襲の話をするのは嫌だった。音と光が空襲を想起させるから、花火大会さえ避けていた。

 昨年、小学生を相手に初めて話をした。想像すら難しい世界にも関わらず、熱心に聞いてくれた。今は「体験を残しておくのは、残された自分の役割かもしれない」と感じている。

 東京大空襲から75年。10万人以上が犠牲になったとされるが、正確な数は不明なままだ。米国による未曾有の虐殺は、なぜ起きたのか。私たちは教訓をいかに生かすべきなのか。今、改めて大空襲に向き合う。 (大森貴弘)

  ■東京大空襲 米国による東京への無差別絨毯(じゅうたん)爆撃。戦争末期に反復して行われたが、特に昭和20年3月10日午前0時過ぎから行われた大規模な空襲を指す。マリアナ諸島を離陸した300機のB29が、現在の墨田区や江東区など下町を襲った。米国は木造家屋がよく燃えるようゼリー状のガソリンを注入した油脂焼夷弾(しょういだん)を使用。大火災を引き起こし、10万人以上を殺害したとされる。



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夕闇の境内に

2024年03月10日 18時16分10秒 | 日々の出来事







ずいぶん、日が長くなりました⭐
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オレンジ色の夕焼け雲

2024年03月10日 18時03分23秒 | 日々の出来事
冬の夕焼け雲ですね⭐



1/27/2024
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