(2019年訪問)前編はこちら。
※兵庫、岡山、広島珍スポットラリーより記事を抜粋しております。
展示車両の向かいには…モノレールに関する各種展示。
細長いスペースに、歴史や当時の背景などのパネルが貼られているのですが……。
実はこの場所、当時の手柄山駅ホームそのものなのです。
なんと…当時の設備が至るところに!!
駅名表や発着時刻表、吊り下げ式の時計、当時の広告などなど……。
なにしろ廃止以降ずっと閉鎖されていた空間だったので、設備も壊されることなくそのまま残っていたわけです。
マニアには嬉しすぎる展示!!
ホーム上の巨大広告。雰囲気重視で再現されたものではなく、これも当時モノだというのだからスゴイ。
ホーム自体は展示用に改装されたとは言え、往時の雰囲気が色濃く残ります。
さて、保存されている車両は2両あるのですが、うち1台は太っ腹なことに車内に立ち入ることが可能です。
車内は東京モノレール等の一般的な跨座式とは違い、段差がなくフラット。これもロッキード式のメリットの一つです。
座席は国鉄車両のようなモケット地。約40年間放置されていた割には傷みもないです。
そして吊り革がないというのと、日よけが上げ下げ式のシェードではなく一般的なカーテンなのが意外。
これは恐らく、姫路モノレールが観光用の乗り物に寄せて作られたためでは?と言われています。
(詳細は後々)
時代を感じる運転台
当たり前ですが、アナログな計器が盛りだくさんです。
旅客営業では最高速度が50キロに制限されていましたが、実際には120キロまで出すことが可能だったようです。
なお、姫路モノレールには両端に運転台がある車両「200形」と、片側にのみ運転台がある2両セットの「100形」が存在していたようですが、ここに展示されているのはいずれも200形。100形は全て解体されてしまったようです。
車内では営業当時の映像を上映。
…元気に動くモノレールの映像はかなり貴重。開業当日に手柄山駅に進入する映像などもあり、思わず見入ってしまいました。こんな雰囲気だったんですね~。
そして先ほど見てきた橋脚や軌道跡の在りし日の姿が見られますね。
かわいらしいジオラマも。
これですよ!すでに解体されてしまった中間駅「大将軍」駅。
マンションの4階部分を突き抜けた特異な姿がお分かり頂けるでしょう。
右の写真は、大将軍駅を出てここ手柄山へ向かう中間地点。先ほど見たコンビニ裏に軌道が残っている部分は、ちょうどモノレールの模型があるあたり。
立ち入ることのできない2両目には、ご覧のとおりモノレールを利用する家族がマネキンで再現されています。
館内の解説によると昭和40年代をイメージしているそう。
また、車両両端の運転席、車掌室にはそれぞれ運転士さんと車掌さんの人形も置かれ、現役時代の雰囲気を再現しています。
車両側面に付いている模様は姫路市の市章です。
米ロッキード社製という事で、車両は航空機の技術を利用しアルミ合金が用いられました。
軽量化、強度を両立させた当時最新鋭の設計であったといいます。
ホーム上にあるモノレールの各種展示。
全国のモノレールの解説や当時の計器類の実物、また現役時の写真などを見ることができます。
そして実際の車両の部品もズラリ。こちらは解体されてしまった100系車両のものになります。
加えて、モノレールのほかに、1966(昭和41)年に開催された
「姫路大博覧会」の展示もありました。
実は、姫路モノレールが建設されたのは、こちらの姫路大博覧会がきっかけ。
姫路駅から手柄山を結ぶ交通手段かつ会場の目玉として、市の期待を背負って開業した路線だったのです。
構想を練ったのは、前姫路市長・石見利勝氏の父、石見元秀氏。
当時の姫路市は人口が増え続け住宅が密集、また地上を走る鉄道での踏切事故が問題となっていたため、「用地が少なく立体交差が可能なモノレールを」という考えであったようです。
当時の構想は壮大なもので、なんと行く行くは鳥取まで延伸する計画まであったようです。
…しかし、博覧会が終了してからというもの、モノレールの利用者は激減。
距離が1.63キロ程度であったという事、また運賃が100円と高額であった事などが災いしたのでしょう(当時の市バス運賃は10円)。
15分に1回ほどという運行ダイヤもあって「歩いたほうが早いんじゃない??」と、市民はどんどん離れて行ってしまいました…。
後にモノレール反対派の新市長の誕生、またロッキード社の撤退なども追い打ちとなり、開業8年目で運行休止。
利用者を増やすてこ入れとして、一時期は姫路城まで延伸するという案も上がっていましたが、その構想もむなしく1979(昭和54)にとうとう廃止となってしまいました。
姫路大博覧会以後、いつの間にか「姫路の恥」として黒歴史扱いされてしまっていた姫路モノレール。
しかし、悲劇の路線に対する市民の関心は意外と高く、長らく放置されていた駅や車両たちが観光資源として再評価。
小奇麗な展示館に生まれ変わったこの場所には家族連れが絶え間なく訪れ、かつての車両は子どもたちの格好の遊び場に(週末なので大変にぎやかでした)。
廃止から数十年を経て、姫路モノレールは再び光が当たることとなったのです。
前市長の石見利勝氏も、父の名誉挽回といった感じで大変うれしく思っている事でしょう。
完。
※兵庫、岡山、広島珍スポットラリーより記事を抜粋しております。
展示車両の向かいには…モノレールに関する各種展示。
細長いスペースに、歴史や当時の背景などのパネルが貼られているのですが……。
実はこの場所、当時の手柄山駅ホームそのものなのです。
なんと…当時の設備が至るところに!!
駅名表や発着時刻表、吊り下げ式の時計、当時の広告などなど……。
なにしろ廃止以降ずっと閉鎖されていた空間だったので、設備も壊されることなくそのまま残っていたわけです。
マニアには嬉しすぎる展示!!
ホーム上の巨大広告。雰囲気重視で再現されたものではなく、これも当時モノだというのだからスゴイ。
ホーム自体は展示用に改装されたとは言え、往時の雰囲気が色濃く残ります。
さて、保存されている車両は2両あるのですが、うち1台は太っ腹なことに車内に立ち入ることが可能です。
車内は東京モノレール等の一般的な跨座式とは違い、段差がなくフラット。これもロッキード式のメリットの一つです。
座席は国鉄車両のようなモケット地。約40年間放置されていた割には傷みもないです。
そして吊り革がないというのと、日よけが上げ下げ式のシェードではなく一般的なカーテンなのが意外。
これは恐らく、姫路モノレールが観光用の乗り物に寄せて作られたためでは?と言われています。
(詳細は後々)
時代を感じる運転台
当たり前ですが、アナログな計器が盛りだくさんです。
旅客営業では最高速度が50キロに制限されていましたが、実際には120キロまで出すことが可能だったようです。
なお、姫路モノレールには両端に運転台がある車両「200形」と、片側にのみ運転台がある2両セットの「100形」が存在していたようですが、ここに展示されているのはいずれも200形。100形は全て解体されてしまったようです。
車内では営業当時の映像を上映。
…元気に動くモノレールの映像はかなり貴重。開業当日に手柄山駅に進入する映像などもあり、思わず見入ってしまいました。こんな雰囲気だったんですね~。
そして先ほど見てきた橋脚や軌道跡の在りし日の姿が見られますね。
かわいらしいジオラマも。
これですよ!すでに解体されてしまった中間駅「大将軍」駅。
マンションの4階部分を突き抜けた特異な姿がお分かり頂けるでしょう。
右の写真は、大将軍駅を出てここ手柄山へ向かう中間地点。先ほど見たコンビニ裏に軌道が残っている部分は、ちょうどモノレールの模型があるあたり。
立ち入ることのできない2両目には、ご覧のとおりモノレールを利用する家族がマネキンで再現されています。
館内の解説によると昭和40年代をイメージしているそう。
また、車両両端の運転席、車掌室にはそれぞれ運転士さんと車掌さんの人形も置かれ、現役時代の雰囲気を再現しています。
車両側面に付いている模様は姫路市の市章です。
米ロッキード社製という事で、車両は航空機の技術を利用しアルミ合金が用いられました。
軽量化、強度を両立させた当時最新鋭の設計であったといいます。
ホーム上にあるモノレールの各種展示。
全国のモノレールの解説や当時の計器類の実物、また現役時の写真などを見ることができます。
そして実際の車両の部品もズラリ。こちらは解体されてしまった100系車両のものになります。
加えて、モノレールのほかに、1966(昭和41)年に開催された
「姫路大博覧会」の展示もありました。
実は、姫路モノレールが建設されたのは、こちらの姫路大博覧会がきっかけ。
姫路駅から手柄山を結ぶ交通手段かつ会場の目玉として、市の期待を背負って開業した路線だったのです。
構想を練ったのは、前姫路市長・石見利勝氏の父、石見元秀氏。
当時の姫路市は人口が増え続け住宅が密集、また地上を走る鉄道での踏切事故が問題となっていたため、「用地が少なく立体交差が可能なモノレールを」という考えであったようです。
当時の構想は壮大なもので、なんと行く行くは鳥取まで延伸する計画まであったようです。
…しかし、博覧会が終了してからというもの、モノレールの利用者は激減。
距離が1.63キロ程度であったという事、また運賃が100円と高額であった事などが災いしたのでしょう(当時の市バス運賃は10円)。
15分に1回ほどという運行ダイヤもあって「歩いたほうが早いんじゃない??」と、市民はどんどん離れて行ってしまいました…。
後にモノレール反対派の新市長の誕生、またロッキード社の撤退なども追い打ちとなり、開業8年目で運行休止。
利用者を増やすてこ入れとして、一時期は姫路城まで延伸するという案も上がっていましたが、その構想もむなしく1979(昭和54)にとうとう廃止となってしまいました。
姫路大博覧会以後、いつの間にか「姫路の恥」として黒歴史扱いされてしまっていた姫路モノレール。
しかし、悲劇の路線に対する市民の関心は意外と高く、長らく放置されていた駅や車両たちが観光資源として再評価。
小奇麗な展示館に生まれ変わったこの場所には家族連れが絶え間なく訪れ、かつての車両は子どもたちの格好の遊び場に(週末なので大変にぎやかでした)。
廃止から数十年を経て、姫路モノレールは再び光が当たることとなったのです。
前市長の石見利勝氏も、父の名誉挽回といった感じで大変うれしく思っている事でしょう。
完。