ホルマリンのマンネリ感

札幌出身苫小牧在住、ホルマリンです。怪しいスポット訪問、廃墟潜入、道内ミステリー情報、一人旅、昭和レトロなどなど…。

【有珠山噴火遺構】金比羅火口

2024-05-29 01:02:14 | ホルマリン漬け北海道 大自然の驚異編
西山火口編はこちら



2000年の有珠山噴火では、3月31日に西山麓で最初の噴火が確認され、翌4月1日には洞爺湖温泉街からわずか350メートルほどの金比羅(こんぴら)山中腹にも新たな火口を次々と形成した。
噴火前の群発地震の段階で住民避難が完了しており死者はなかったが、噴出物が熱泥流となり居住エリアに押し寄せた。
1977年噴火後に整備されていた流路工(人工河川)により初期段階の被害は食い止めたものの、泥流の勢いは収まらず数日後に溢れ出し、国道の橋や町営浴場、団地群などを破壊した。

こちらの災害遺構散策路は2005年に整備されている。


温泉街からほど近い散策路へはまず階段を降り、ぶ厚い壁や堤防に囲まれた広場を歩く事になる。
実は、ここは大泥流が押し寄せた際に堆積させる「遊砂地」としての役割も持っている。
金比羅火口の災害遺構散策路は、減災につなげる砂防施設も兼ねて整備されているのだ。



最初に現れるのは、元町営温泉施設だったという「やすらぎの家」。
1988年に建てられ、噴火の前年に改修したばかりだったというが、運悪く熱泥流の被害を受けてしまった。
被災当時のまま保存展示されている。







建物に近づいてみると、泥流の泥しぶきが壁や天井にまでも残ったままで、かなり生々しい状態だ。
押し寄せた泥流は1メートルもの厚さで屋内を埋め、押し流された備品類も無残に埋もれたままだ。
また屋根には噴石の被害も確認できる。



「やすらぎの家」の向かいに横たわるのは、約100メートルも流されてきたという、国道230号に架かっていた「木の実橋」である。



流路工で防げなかった泥流の威力は相当なものであったようだ。
流されてきた橋は公営住宅「桜ヶ丘団地」の2階部分に激突した後、さらに60メートルほど流されこの場所でようやく止まった。
この橋の他、町道に架かっていた「こんぴら橋」も押し流されたようだ。



近くには5階建ての「桜ヶ丘団地」の1棟もそのまま保存されている。
噴火前は3棟並んでいたそうで、こちらの「3号」棟が噴石・泥流の被害が最も大きかったとのことだ。


郵便受けの名前がそのままになっており、部屋を覗くと家財道具なども残っているのが確認できる。
周辺で生活していた203世帯308人の住民は避難しており無事だったが、避難命令は1年3か月に及び、解除後は火山灰や泥流の堆積で物品を運び出せない世帯もあった。



裏手に回ってみると、1階部分は完全に埋もれてしまっている。
窓が割れたり柵が壊れているのは噴石被害によるものかもしれない。



そして、角部屋のベランダが大きく損壊しているのは、先ほどの押し流された「木の実橋」が激突したため。その橋が奥に見える。
自然の驚異を感じられるものすごいスケールの実物展示だ。



ここから金比羅火口群を巡る散策路が続いているので、ヒグマに気を付けながら林の中へと入る。
泥流をせき止める「砂防えん堤」を越えてすぐ脇を歩いていくルートで、間近に迫るその巨大さに圧倒される。


一部、旧国道230号のわずかに残った部分も歩くので、道中はイエローラインの残るアスファルト路面や傾いたカーブミラーを見ることができる。
また、かつて走っていた洞爺湖電気鉄道(1929~41)の橋脚跡なんてものも。


木々が生い茂り分かりにくいが、活断層群の観察ポイントを越えると1つめの火口「珠ちゃん火口」が見下ろせる。
ずいぶんと可愛らしい名前が付けられているが、活断層群に次々と開いた火口が西側へ移動して出来たもので、最後まで活動していた西端の火口だという。
そして、珠ちゃん火口から程なくして分岐すると2つめの火口「有くん火口」のふちに辿り着く。



「有くん火口」は2000年噴火で金比羅山周辺に出来た最大の火口とのことで、その直径は200メートル。
現在は水をたたえている水面までは高さ20メートル以上あるといい、こうしてふちから見下ろしてみると圧巻である。



案内板にあった噴火当時の写真。有くん火口(最も左の煙が出ている部分)と珠ちゃん火口(有くん火口の右下の煙が出ている場所)がよく分かる。また、下部には3棟並ぶ「桜ヶ丘団地」と「やすらぎの家」が見える。


散策路を道なりに歩き続けると、15分ほどで西山火口の旧消防署&水没ファミリアの地点まで出ることができる。
近くの住宅から出てきた老夫婦があいさつしてくれ、話の流れで麓の温泉街まで車に乗せて行ってくれることになった。思わぬ出会いとご厚意に感謝である。

ご夫婦は1977年の噴火時には既に有珠山周辺に住まわれていたといい、噴火被害で住まいを移されたこともあったらしい。
2000年噴火では一時避難したが、幸いこの時は家屋に被害は無かったそうだ。
「仕事があるからずっとこの場所。離れようとは思わなかった」と言っていた。
詳しくはお聞きしなかったが、洞爺湖周辺で観光か宿泊関連のお仕事をされていたのかもしれない。


【有珠山噴火遺構】1977年火山遺構公園編に続く。
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【有珠山噴火遺構】西山火口(後編)

2024-05-24 00:04:22 | ホルマリン漬け北海道 大自然の驚異編
(2024年訪問。前編はこちら


旧国道ルートから既存の散策路へと戻る。
ここからは隆起の頂上部分から下るかたちで、内浦湾方向へと順路が続く。
先ほど展望台部分からも見えていた平屋建て?の廃墟を間近で見ることになるのだが、これは実は洞爺湖温泉の銘菓・わかさいもの元工場である。
珍しいお菓子工場の廃墟という事で、小学校時代に見物した際ひときわインパクトの大きかった噴火災害遺構のひとつである。
隆起した地面に合わせて建物全体が大きく波打っており、加えて年月の経過で崩壊が進み何とも無残である。
なお、ここ一帯は菓子の原料である高級菜豆の畑が広がっていたそうだ。


散策路は再び旧町道と合流するので、電信柱やガードレールなどの遺構が多く現れる。
アスファルト路面に倒れたままのブロック塀が生々しい。

そして、ここでは町道に面していた住宅跡がそのまま残っている。




かなり古いスカイラインのセダンと思しき車はここの主(あるじ)の愛車だったのか。
門構えが立派で、結構な豪邸だったのではないかと推測されるが、地殻変動で無残にも倒壊し、屋根には噴石によるものと思しき穴がいくつも開いている。


家のすぐ隣にあるコンクリートのトンネルのようなものは、何と地中に埋められていた函型管渠(ボックスカルバート)で、7メートルもの隆起で地上に出てきてしまったのだという。
斜面の上から順路を振り返ると、確かにここ一帯の地面のうねりがかなり激しい事が分かる。



これも隆起によるものだろう、急斜面となったひび割れた旧道を下って行くのだが、おそらくここは旧国道。
矢印や50高中など、残る道路標識が立派だ。よく見ると噴石によるものか角がめくれているものもある。
そして程なくして、噴石被害の激しかった旧とうやこ幼稚園の廃墟と、傍に停められた廃バスへと辿り着く。


道南バスカラーの大型バスは、幼稚園の関連行事で使われていたのだろうか。現在はかなり朽ちてしまっている。よく見ると屋根には噴石が直撃した大きな穴が開いており、窓枠は歪んでいる。


火口から600メートルの距離にあった旧とうやこ幼稚園、大小さまざまな噴石が無数に降り注ぎ、園舎の天井や壁は穴だらけになってしまった。
被害直後はまるで無差別爆撃の戦場のような光景だったという。
幸い、噴火前の3月29日に住民らへの避難命令が出されていたため死傷者はいなかった。





壁にいくつも大穴が開いているのが分かる。
グラウンドにある遊具も噴石の直撃で歪んでしまっている。
周囲に転がっている巨大な岩々は恐らく遊具に直撃したものだろう。



少し小高い場所から幼稚園のグラウンドを見下ろす。
至る所に見える岩々はオブジェで配置されたものでは無く、すべて火口から降ってきた噴石群である。
バスの屋根を突き破ったり鉄の棒をひん曲げたりしてしまう大きさと威力なので、もしこの場に人間がいたらひとたまりも無かったろう。何とも恐ろしい。


園の敷地の隅には送迎用のマイクロバスも残っていた。
こちらも噴石の直撃により、紙が破れたような穴が天井に開いてしまっていた。
ボディの側面が内側から不自然に膨れているのも、天井から内貼りに直撃した噴石によるものか。



火山灰も多く降り注いだグラウンドは現在、植物がどのように生えるのかを調査する「植生回復観察エリア」にもなっている。
草刈りをしていないエリアは、十数年前の他者の写真と比べると草木が大きく育っているようだ。
なお、とうやこ幼稚園は少し下った市街地に園舎を移転し、現在も無事に経営を続けている。


【有珠山噴火遺構】金比羅火口編に続く。
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【有珠山噴火遺構】西山火口(前編)

2024-05-19 23:38:55 | ホルマリン漬け北海道 大自然の驚異編
(2024年訪問)



2000年3月31日、洞爺湖の南に位置する有珠山(標高737メートル)が、1977年8月以来23年ぶりに噴火した。
マグマ水蒸気爆発が最初に確認されたのは西山麓で、噴煙の高さは最高で3500メートルに達した。
翌4月1日には北西部の金比羅山にも新たな火口を次々と形成し、洞爺湖温泉街や湖畔を中心に多くの火山灰を降らせた。

一連の噴火により、西山麓の国道230号や町道を分断するかたちで火口列ができ、地殻変動で約70メートル隆起。
周辺の地形を全く違うものに変えてしまい、家屋の倒壊、インフラの損壊など多大な被害をもたらした。
幸い、3月下旬から群発地震が始まっていたこと、また前回の77年噴火の教訓が生かされたこともあり、噴火前に周辺住民の避難は完了しており人命の被害はなかった。

2002年、噴火災害を後世に伝えるべく、西山火口周辺に散策路が整備された。
隆起した旧国道、倒壊した家屋や電信柱などがそのまま残されており、見学者は噴火災害遺構を巡りながら被害の様子を学ぶことができる。
また09年には変動する大地を体感できる場所として、伊達市、豊浦、壮瞥、洞爺湖町の一帯がユネスコの「洞爺湖有珠山ジオパーク」に認定された。


洞爺湖温泉街から西山火口散策路の入り口に到着するとまず現れるのが、寸断され沼になった旧国道230号。
もとは向こうに向かって下り坂だったのが、地面の隆起で谷になり、地下水や雪解け水をせき止める形になってしまったという。
地殻変動によるせき止め湖は世界的に見ても極めて稀らしい。



かつては主要な交通路だったとの事で、今も残る道路標識や電線などが生々しい。
そしてポツンと残る白い車(マツダファミリア)は噴火当時、報道関係者が乗り捨てていったレンタカーという。年月の経過によるものか、屋根はすっかり潰れてしまっている。


沼のわきにあるピンクの建物(※記事最初の写真参照)は旧西胆振消防組合の本部庁舎で、現在、床は4%ほど傾き1階部分は浸水してしまっている。
資料展示室として内部を解放しており、噴火当時の写真パネルや噴出した火山弾などが展示されている。



旧国道隣の旧町道沿いに上り勾配の散策路が延びており、まずは断層化したアスファルト路面を間近で見学できる。
地面が隆起し、地表が引っ張られたことで陥没した「グラーベン」と呼ばれる地溝で、世界的に重要な観察ポイントなのだとか。




上り勾配の突き当りに、数個の火口が町道を寸断した「割れ目火口群」が現れる。
東西へ150メートルほどの長さで延びており、覗いてみると底が深く圧巻である。
ここが町道だったとは中々想像しにくいが、よく見ると断崖から折れた水道管が飛び出ているのが分かる。
また付近には折れた電柱が標識の高さまで埋まっており、ここの地形がいかに高く盛り上がったのかが分かる。



火口群のフチに沿って木道が続いているのだが、この辺りは地熱帯らしく注意喚起の看板が立っている。
実はこの場所は小学生時代(2004年ごろ?)にも来たことがあり、当時はあちこちから蒸気が噴出しており地面も温かかったのだが、現在は湯気は見られず。
草木が生え始めているので活動は落ち着いているようだ。



程なくして、約70メートル隆起した頂上付近の展望台へと到着した。
町道の真上に開いた火口と、その向こうに内浦湾(噴火湾)と海沿いの街並みを見下ろすことができる。


この展望台からは、昨年2023年に新しく整備された別の遊歩道「旧国道ルート」が延びている。
実は今回の訪問はこの新ルートを歩くのが大きな目的であった。先ほど見下ろした「割れ目火口群」の対岸に向かって急な階段を降りてゆく。


途中、一部を残して埋まってしまった重機を間近に見ることができた。
これは噴火の直前に水道管工事で使われていたが置き去りにされてしまったもので、これまでは対岸の展望場所からしか見られなかった。
火口ガイドなどでは必ず紹介されるポイントなので、近くで見られるようになって嬉しい限りである。
少し進むと、国道沿いに設置してあった電信柱もあった。電線までぶら下がったままだ。
こちらも半分以上が地中に埋まってしまっているようだ。




地殻変動の影響でこの辺りの地形はアップダウンが激しく、散策していると汗ばんでくる。
火口付近では国道の形跡は全く無くなっているが、盛り上がった断層の上から旧国道を見下ろせる場所があった。



数十メートル下に広がる旧国道は階段状になってしまっている。
そしてここにも道路標識やゲート上の構造物などが多く残る。これまでの既存ルートからは見えなかった光景で中々迫力がある。
また、不自然に折れ曲がった木があったが、これは火山灰が降って変形してしまったものであろうか。

続く。
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原子力PRセンター とまりん館(後編)

2024-05-02 23:17:33 | ホルマリン漬け北海道 珍スポット編
※2016年訪問、2024年再訪。前編はこちら




さて「外部遮へい壁」と「アニュラス」の中へ入り、いよいよ原発の核の部分、原子炉である。
原子炉容器が実物大の大きさで再現されており、黄色く光るのは「ペレット」から成る「燃料棒」を束ねた燃料集合体の数々である。
この燃料集合体が、原子炉容器の中には157体入っているという。


原子炉の中で燃料集合体のウランが中性子を吸収し、核分裂の連続反応を起こすことで大量の熱が発生する。冷却水が温められ320度の熱水となり、これが蒸気を発生させて発電機のタービンを回すのが原子力発電の仕組み。
原子炉の中では「核分裂を体験しよう!」ということで、足でウランを踏むと弾けて次々と核分裂が起こるバーチャル体験があった。すごい展示だ。


原子炉容器の隣には、こちらも実物大で再現された蒸気発生器の模型。
この中にある配管に熱水が流れ、二次冷却水を蒸気にする仕組みだ。
発生器からタービンに繋がる蒸気管(放射性物質が漏れないように多重構造になっている)もあった。




順路に従って進み、ここからは作業員の放射線管理について紹介するコーナー。
被ばくを防ぐため、管理区域を汚染可能性レベルで細かく分けたり、入退域を細かくチェックしていたりなど作業ルールを学べる。



管理区域内に入る際の作業員の装備である。
専用の作業着に着替え、立ち入り許可カード、表面汚染検査の測定器や時間管理できるポケット線量計などが必需品だ。



お次は原発の安全運転を担う中央制御室である。
3交代制の24時間体制で各設備の監視を常時行い、核分裂から発電までの全てをコントロールしている。
とまりん館内のここはタッチパネル型のゲームに参加できるミニシアターになっており、10分程の上映で原子力発電の流れを楽しく学ぶことができる。
「ウラン」「プルトニウム」などの表記が次々と流れてくるシアター上映はなかなか非日常的だ。


中央制御室の隣で怪しく光っていたのは使用済み燃料ピット。水深12メートルある専用プールで燃料集合体を冷却、貯蔵している様子が再現されている。
保管の取り扱いはすべて水中で行うので、放射線はプールの外へは漏れず作業員の人体に影響はない。


使用済み燃料に加え、取り扱いに特に注意せねばならないのが放射性汚染物質。展示の最後には低レベル/高レベル汚染物質の廃棄方法を解説している。
放射能レベルの低い「低レベル放射性廃棄物質」は圧縮しドラム缶に詰め、発電所内に一時保管したあと青森県の廃棄物埋設センターに運ばれ埋設処分される。アスファルトで固めた液体や、布、紙など可燃物を焼却した灰、裁断したビニール・ゴムなどの不燃物が含まれる。
使用済み核燃料から発生した廃液は「高レベル放射性廃棄物」であり、こちらはガラス原料と融かし合わせステンレス製の容器の中でガラス固形体に。30~50年ほど地上で貯蔵し冷却した後、300メートル以上深くの地中(岩盤)で「地層処分」されるという。

この他、3号機の再稼働後に予定されているプルサーマル発電(使用済み燃料からプルトニウムを取り出しリサイクル)についてもパネルで紹介されていた。



施設の最上階4階はガラス張りの展望ラウンジとなっており、積丹半島の青く輝く日本海などを望める。
双眼鏡が常設されているが、残念ながら山の陰に隠れ、泊原発本体はここからは見えなかった(寿都町あたりまで南下すれば割とよく見えたはず)。
2階には小さな図書コーナーがあり、原子力エネルギー関連の書籍がかなり充実していた。
またプール棟も併設しているようだが、2024年現在、休止中であった。

完。
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原子力PRセンター とまりん館(前編)

2024-05-01 21:06:39 | ホルマリン漬け北海道 珍スポット編
※2016年訪問、2024年再訪


原子力エネルギーの信頼回復なるか?
(古宇郡泊村大字堀株村古川45)



後志管内泊村の泊原発が稼働停止してから、すでに12年が経過している。
北海道唯一の原子力発電所である同原発は1989年に1号機、1991年に2号機、2009年に3号機が運転開始。2010年度には道内で使用される電力の約4割を担っていたが、2012年5月以降「定期検査中」として一切の発電をストップしているのは、言うまでもなく2011年・東日本大震災による福島第一原発の事故を受けたものである。
原子力エネルギーの安全性を疑念する声はいっそう強くなり、泊原発は再稼働へ向けた審査を原子力規制委へと申請しているものの、審査は長期化している状況。
22年には反対派の道民ら約1200人の訴訟を受け、札幌地裁が「運転差し止め」の判決を下す(廃炉は認めず)。北電側は控訴している。



そんな泊原発から直線距離で2キロほどの場所に、今回紹介する原子力PRセンター「とまりん館」がある。原子力発電の仕組みや、泊原発の安全への取り組みなどを子どもでも分かりやすく学べる施設となっている。
原発停止以降どうなっているんだろうと思ったら、今日まで律儀にかつひっそりと開館を続けていた。
実は2016年に訪問しているのだが、中々デリケートで込み入った話題であるため更新を後回しにしていた。8年越しの記事編集に当たり施設を再訪してきたので、2016年、2024年の写真が混在していることをご了承いただきたい。

清潔感溢れる4階建ての施設は入館料無料とは思えぬ立派さ。
エントランスでは原子炉格納容器をモデルにしたと思われるマスコットキャラ「とまりん」がお出迎え。



2024年は、ちょうど3月末に新たな防潮堤の設置工事に着工したばかり。
これまで海抜16.5メートルあったものを19.5メートルに上げる計画で、工期は3年程度を予定しているという。
高い吹き抜けのホールでは、親切に防潮堤の高さ(敷地高さ10メートルを抜いた数値)が実寸で示されているのだが、すでに新たな高さの9メートルに書き替えられている(2016年訪問時は6.5メートルであった)。



なお施設の入り口には、敷地内での無許可取材やデモ行為などを禁止する注意書きが立っており、少し物々しい雰囲気。入館しカウンターの職員と対面するときは何やら緊張してしまった。
なお、私は原発反対派でも推進派でも無い。


展示室に入ると、まずはハンドルを回して電気を発生させたり、装置を動かしたりする、よくある科学展示コーナーが展開されていた。
写真には写っていないが、2024年訪問時はゴールデンウィーク真っ只中であったためか、家族連れや旅行者がチラホラと。




そんな中に、放射線の飛跡を観察できる「霧箱」や、体内の放射能を測定できる装置など原子力PRセンターらしい設備があったが、昨今の状況のせいなのかいずれも「調整中」であった(※2016年)。
※2024年訪問時には撤去されていました。



さて、ここからがメインの原子力展示コーナー。
とまりんが指し示す「原子力展示はこちらです」の看板に従い、卵形のゲートを進んでゆく(冒頭の写真)。
展示室内は原発3号機内を模しており、我々見学者は順路に従い原子炉や蒸気発生器の中に入って構造を学ぶ仕組みだ。



まず現れたのは原子炉格納容器内の蒸気発生器からつながる巨大なタービン。
原子炉内で冷却水を熱水にし、蒸気を送ることで回転し発電する。


向かいにはタービンとつながっている原子炉建屋がある。
原子炉の中の放射性物質は外部へ漏れないよう「5重の壁」で閉じ込められており、最も外側である建屋の「外部遮へい壁」が再現されている。
厚さ約1メートルの鉄筋コンクリート製で、内部には最大直径38ミリの極太鉄筋が使われており地震にも耐えうる設計。
外部遮へい壁と原子炉格納容器の間には、さらに幅約1.5メートルの密閉された空間「アニュラス」があり、圧力を低く保つことにより格納容器から万が一放射性物質が漏れても外部流出を防ぐ構造となっている。



原子炉建屋の前には、これでもかというほどの泊原発の安全対策アピール(※2016年)。
さて、いよいよ原子炉の中へ。まさに「核心」か。

続く。
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