古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「伊吉博徳」達の遣唐使と日本国

2024年11月20日 | 古代史
『新唐書』によれば「唐」の三代皇帝「高宗」は倭国からの遣唐使(六五三年)に対して「璽書」(璽を捺印した書状)を下して、「新羅」を救援するようにと指示しています。

「永徽初 其王孝德即位改元曰白雉 獻虎魄大如斗碼碯若五升器 時新羅爲高麗百濟所暴 高宗賜璽書 令出兵援新羅 未幾孝德死… 」

 倭国年号「白雉」の改元は六五二年とされていますから、その翌年の遣使が改元を伝えるものであったとして不自然ではありません。ただし『唐会要』では「六五五年」のことととされており食い違いがありますが、より原初的なものは『新唐書』の方の記述と思われます。(『倭国王』としての「孝徳」が即位してすぐと考えると『書紀』と整合するのは「六五三年」の方でもあるため)
 この時代柵封された諸国にとり「唐」の皇帝という存在は「絶対」であり、その「唐」皇帝からの「璽書」も同様に「絶対」であり、これに反するということは事実上できないことであったものです。「倭国」は「柵封」されていたというわけではないものの「域外募国」として「唐」皇帝を「天子」と「尊崇」していたものです。「新羅」を通じて「唐」との国交を回復したという点からも「唐帝」が「新羅」との友好を進める様にという指示を与えたのも理解できるところです。このように一旦急あれば「新羅」に対する援助を行うことを指示したことで「倭国」はその外交方針が非常に決めにくくなったものであり、方針決定を困難なものとした理由の一つと思われます。この「璽書」が下されたことにより「百済」と連合して「新羅」と対抗するということが事実上できなくなったと見られます。なぜならそのような行為は下された「璽書」に反することとなり、「唐」の「朝敵」となってしまうからです。
 それ以前に「倭国」と「倭国王」は「難波」に副都を設け、東方支配を拡大するとともに、「倭国王」は「新羅」を通じて「高表仁」問題の謝罪を行い、関係改善を指向していたものです。その後「唐」との関係改善を確実にするため「遣唐使団」を派遣します。これが「白雉四年」(六五三年)の「遣唐使団」です。彼らが「高宗」から「璽書」を下されたというわけです。その彼らが派遣されて帰国しないうちに当の倭国王がその座を去るという事件が発生します。
 彼の政治方針を支援する勢力が彼から離反した結果、彼が倭国王で居続けることが不可能となった結果であり、このタイミングで彼を支援していた「倭国勢力」(筑紫勢力)が旧都である「筑紫」に戻ってしまったものです。これは政治的に重大な話であり、東方統治という新しい施策を実行する立場の人が突然いなくなってしまったわけですから、ここに『政治的空白』が生まれたと考えられます。この「空白」を埋めるべく「東方」統治の実務を担当していた「諸国」としての「近畿王権」がその実権を握ったものと推量します。その時点で国家体制に変動があったわけであり、それをまず「唐」に伝えるというのが彼ら「難波王権」の方針であったようです。彼らは翌年すぐに別に遣唐使団を派遣することとなりますが、その構成も「押使」という重要な立場の使者を含むものであり、また当時ちょうど「国王」の座についた「新羅」の金春秋の祝賀も兼ねて「新羅道」を経由して「唐」に向かったものです。つまり「新羅」「唐」の両者に対して関係改善のメッセージを送るとともに双方に「日本国」の成立と「倭国からの正当な継承者」であることを知らせようとしたものと考えられるわけです。
 その彼らは「唐」に赴いた際に「日本国」の使者を名乗りまた「国王」は「天皇」号を使用しているということを伝えたものですが、それはすでに「各種」の「詔」に明確なように「倭国王」としての「東方統治」において「日本国」を名告った際に「天皇号」も使用していたものであり、それを「難波王権」がそのまま「倭国王」の呼称として採用しそれを「唐」においても伝達し、承認を得ようとしたものです。
 これを「鴻廬寺」では「倭国からの単なる名称変更」と理解され、そのまま「長安城」の中に案内されたものと見られます。しかし連年の遣唐使という異例さに対して違和感を抱いた「東宮監門」という職掌の「郭丈挙」という人物に「誰何」されたものです。彼の疑いは正しく、この場合の「日本国」は「難波王権」を指し、「筑紫」に本拠を置く「倭国王権」(筑紫日本国王権)とは別であるという結論に達したものであり、それが「別種」と表現される理由となったものと思われます。
 次いで「難波日本国」に「唐」から招請状が届きます。それが「六五九年」に行われた「朔旦冬至」の宴です。これは十九年という「暦」における「章」の期間の始まりとして意識されているものであり、皇帝の権威と密接に関係しているもので、単に宮中行事ではなく広く国の内外から客を招請し天体の運行が皇帝の権威の下にあるということを印象づけるために行われるものであり、それには古来より「夷蛮」つまり「東夷」「南蛮」の国が特に存在が必要であったものであり、その意味で「日本国」に招請が来たものと思われます。すでに得ている地理情報では明らかに彼らが「倭国」と認識している国よりも「東方」に位置すると考えられていたものであり、であれば「東夷」のさらに東方に位置する国として招請の対象として最適と思われたものと思われます。
 この「六五九年」の「伊吉博徳」が参加している「遣唐使」が「日本国」からのものであるというのは、彼等に対して唐皇帝(これは「高宗」)から「日本国天皇」と呼びかけられていることでもわかりますが、彼らが「洛陽」について「東京」と表現していることでも判明します。「洛陽」は「隋代」に「東都」に改名されており、倭国からの遣唐使は「東都」と改名していこうに「遣唐使」として訪れたことが判明していますが、「日本国」の関係者はその時代にはそもそも「日本国」は成立しておらず、また「近畿王権」は「諸国」の一つでしかなかったものであり、外交を行う権能を有していなかったということから、「歴史的経緯」を熟知していなかったことが原因と思われます。また彼らは「唐」が当時使用していた暦である「戊寅元暦」の存在を知らなかった形跡があり、「伊吉博徳」の記録(書)では「閏月」である「十月」の月の大小を間違えています。
 「高宗」に拝謁した日付が「三十日」とされていますがこの年の「潤十月」は「小」の月であり「三十日」は存在していません。それがここに記載されています。明らかに「暦」についての誤解があったものと思われます。
 本来の「戊寅元暦」ではこの「六五九年」の「十月」は「大」の月、「閏十月」は「小」の月のはずですが、「伊吉博徳」等はこれを逆に「十月」を「小」「閏十月」は「大」というように理解していた可能性があります。つまり、「出発」以降「一日」ズレて理解していたと思われるわけです。そうであれば「長安」への到着は実際には「閏十月十四日」であり、「皇帝」に拝謁したのは「二十八日」と思われます。(「冬至之會」が行われた日付は両者とも同じ「十一月一日」で変わらないと考えられます。)
 つまり「唐」から頒布された暦ではなく「難波王権」で独自に作成した「暦」を使用していたという可能性があると思われるわけです。他の国々のように毎年十一月一日に暦の頒布を受けていればそのようなことはないわけですが、柵封されていない国では独自に暦を作る必要があり、そのため理解不十分となったという可能性が考えられます。(これを「元嘉暦」と考えても「月」の大小は「戊寅元暦」と同じですから変わりません)
 またこの時の招請を受けた国の中に「倭国」からの使者もいたことが「博徳」の言葉から推定できます。「博徳」の記録の中に「冬至の会」の際の言葉があり、そこで「倭客」という呼称が現れます。また「我客」という語も使用されています。

「…所朝諸蕃之中、倭客最勝。…」
「…韓智興傔人西漢大麻呂、枉讒我客。…」

 ここで客」という言い方がされていますが、この「客」というのは現在と変わらない使用法であり、「自分たちのグループの外から集められた人たち」をいもするものであり、「倭客」の場合は「倭国」のグループが集めた外部の人たちを指し、「我客」の場合は自分たちが集めた外部の人たちを指すと思われますから、「倭」と「我」とは違うという結論になります。つまり「博徳」達とは別に「倭」からの使者もこの「冬至の会」の招請を受けていたものと思われることとなりますが、それはある意味当然のことです。本来の「東夷」を代表しているのは「倭国」であり、倭国との関係を考えると招請しないことの方が考えにくいものです。さらにまた当時の半島情勢と絡み彼らが百済・高麗に支援することのないよういわば「質」とするつもりだったことも別途推定できます。


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