判官びいきの日本では、源義経だけでなく、愛妾の舞姫「静御前」の人気も高い。
よし野山みねのしら雪ふみ分けて いりにし人のあとぞこひしき
しずやしず しずのおだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな
鎌倉の八幡宮、頼朝の面前で、義経を慕う歌に合わせて堂々と舞い踊った静御前の心意気は、男もほれぼれするほどだ。
その静御前の墓が、JR東北線と東武線の栗橋駅東口にあると聞いていたので、一度訪ねてみたいものだと思っていた。
産卵のために利根川を逆上る中国原産コイ科の1m近いハクレンが、栗橋駅に近い、国道4号線の利根川橋とJR東北新幹線の鉄橋の間でジャンプする季節なので、どんな所か見ておきたい気持ちもあった。
静御前の墓と称するものは、全国にいくつかあるようで、もちろん、眉に唾をつけながら出かけた。だが、「静御前遺跡保存会」と「栗橋郷土史研究会」を中心とする地元の熱意に打たれて、「ひょっとして本当なのかな」と思いながら帰ってきた。
駅の改札を出ると目の前の壁に、この二つの会による「悲恋の舞姫 静御前 終焉の地」という展示が飛び込んできた。
1925(大正14)年に印刷されたという「静村郷土誌」の一節が掲示されている。よく読むと、静御前は、「下総(しもうさ)の国勝鹿郡伊坂の里で病死した」と書いてある。
この「伊佐の里」が、現在の埼玉県久喜市栗橋町伊坂で、1889(明治22)年、近隣の6村が合併してできた「静村」にあった。どの村の名もとらず、「静村」と決めたというから泣かせる。
この村は、久喜市の北部にあって、1957(昭和32)年、栗橋町などと合併し消滅した。
伊坂とは、栗橋駅前の大字。駅から50歩も歩けば、「クラッセ くりはし」と呼ぶ一角がある。「クラッセ」とは、栗橋地方の方言で「ください」という意味だという。
入り口の左手にあるのが、静御前の墓である。よくあるようにポツンと一つ寂しげに立っているのではない。ここが終焉の地であることを立証しようとする多くの旧蹟が、これでもかこれでもかと詰め込まれている。
裏に回ると、左右に「旧跡光了寺」と「静御前之墓」の石柱が立つ。
久喜市の指定文化財に指定されていて、分かりやすい絵付きの掲示板が立っている。
静は、義経を慕って、平泉に向かった。途中で「義経討死」を知り、京都へ戻ろうとした。悲しみと慣れぬ長旅の疲れからこの地で死去したと伝えられる。
一人旅ではない。侍女琴柱(ことじ)と侍童がついていた。琴柱が遺骸を葬ったのが、この「光了寺」だというのである。
「光了寺」は、今は対岸の古河市中田にあり、静の舞衣(まいぎぬ)を保存していることで知られる。昔は、伊坂にあったのだという。
琴柱はこの後、京都の嵯峨野から静の持仏「地蔵菩薩」を持ち帰り、「西向尼」と名乗って、静を弔った。琴柱のいた小さな寺「経蔵院」は近くに今も残り、「本尊地蔵菩薩」は栗橋町の指定文化財に指定されている。
この仏像は、和紙と漆の立像で、日本では三体だけという貴重な文化財だという。
「静御前之墓」には、1803(享和3)年に、義経の血縁者である幕府の関東郡代中川飛騨守忠英が建てた「静女之墳」があり、2001(平成13)年、静御前遺跡保存会の手で修復された。
近くに
舞ふ蝶の果てや 夢見る塚のかげ
という江戸時代の歌人が詠んだ句の石碑もある。村人が建てという。このほか、「静御前七百五十年祭慶讃記念塔」や「義経招魂碑」に並んで「静女所生御曹司供養塔」もある。「所生」とは、生んだ子のことで、頼朝の命で二人の間の子は殺された。
さらに、「静桜」も植わっている。里桜の一種で、五枚の花弁の中に旗弁という、オシベが花びらのように変化したものが交じる特殊な咲き方をすると書いてある。
遺跡保存会では、命日だという9月15日に「静御前墓前祭」、栗橋駅前商店街事業協同組合では、毎年10月中旬、「静御前まつり」を開く。12年で第20回を迎えた。若者たちが静御前と義経に扮した豪華な時代絵巻「静をしのぶ」という歌もできていて、小学生が駅前舞台で歌う。
町を歩くと、「静最中」の看板や「静御前墳塋(ふんえい=墓)参道」の小さな石碑も目に付いた。しずか団地もあるようだ。栗橋町は、静御前で町おこしを図っているようだ。
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