東武東上線霞ヶ関駅から徒歩15分、川越市上戸にある国指定史跡「河越館(やかた)跡」の常楽寺を訪ねると、河越重頼ら3人の真新しい供養塔が立っているのが目に付く。(写真)
当時のこの館の主、重頼と娘の「京姫(郷姫とも)」、それに源義経のものである。
義経の女性と言えば、静御前が有名で、埼玉県にも墓がある(久喜市栗橋町)。別項(カテゴリー中世「静御前の墓」)参照。
静御前は京の白拍子で義経の愛妾だった。「郷御前」とも呼ばれる「京姫」は、頼朝の斡旋で義経の正妻に選ばれ、1184(寿永3)年、この館から京都にいた義経のもとに輿入れしたのである。
しかし、平家滅亡後、頼朝と義経が不仲になり、1189(文治5)年には義経は奥州平泉の衣川で藤原泰衡に襲われ、自害する。
重頼も、義経の義父ということで、領地を没収されたうえ長男とともに殺されてしまった。
河越歴史博物館のホームページによると、京姫が京都の義経のもとへ嫁いだのは17歳の時。衣川の館で、義経とともに自害、4歳の娘も一緒に死んだ。22歳の時だったという。義経は31歳だった。
義経の平泉落ちに正妻が同行、娘もいたのには驚いた。
重頼が、娘が義経の正妻に選ばれるほど頼朝に近かったのは、重頼の妻が比企尼の娘(河越尼)だったことだった。
比企尼のことは、このブログの別項(カテゴリー中世「比企尼と比企能員」)を見てほしい。頼朝の乳母だったが、単に乳を与えるだけではなく、20年間、伊豆に流されていた頼朝へ食料を仕送りするなど生活のすべての面倒をみていたらしい。
比企尼に恩義を感じていた頼朝は、比企尼を厚遇、比企尼の甥で養子になっていた比企能員(よしかず)も重用した。
頼朝の妻、北条政子が長男頼家(二代将軍)を出産したのは、比企能員の邸で、重頼の妻が乳母に召された。
比企能員同様、河端重頼も比企尼とそれぞれの妻の縁で、頼朝に重用されたのだった。
河越氏は、河越館を拠点に平安時代末期から南北朝時代にかけて武蔵国で勢力を振るった豪族。桓武平氏の流れをくむ坂東八平氏の秩父氏の嫡流だった。
国司の代理職である「武蔵国留守所総検校職(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)」を継承し、武蔵国の筆頭格だった。
重頼の三男の子孫は室町時代まで続くが、子孫の河越直重は1368(応安元)年、武蔵・相模などの平氏とともに、室町幕府の関東を治める機関「鎌倉府」に対して「平一揆(へいいっき)の乱」を起こした。河越館に立て籠もるが、敗れて、河越家は歴史の表舞台から姿を消してしまう。
常楽寺は、時宗の寺院で河越氏の持仏堂だったが、河越氏の衰退後寺域を広げた。
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