比企尼と比企能員
平安時代の末期の源平合戦、鎌倉幕府の成立からその初期まで、武蔵武士は栄光の時代を迎えた。だが、その期間は短かった。
源平合戦における武蔵武士の活躍ぶりは「平家物語」に詳しい。武蔵国男衾郡畠山を「名字の地」とする畠山重忠の武勲、子の直家とともに源頼朝に「本朝無双の勇士」と紹介された熊谷郷の開発領主・熊谷直実の話などは、中学時代、週刊朝日に吉川英冶の「平家物語」が連載され、愛読していたこともあって、懐かしい限りだ。
武蔵武士の歴史を振り返って、面白かったのは、桓武平氏の流れを汲んだ「坂東八平氏」という言葉があるとおり、この地域はもともと平氏の地盤だったのに、源頼朝が平家打倒の兵を揚げると、一旦は平家寄りに動くものの、一斉に頼朝になびいていく姿だった。
なかでも秩父牧(馬の牧場)を基盤として発展した秩父平氏の一族の去就が戦局を大きく左右したとされる。
合戦では鎌倉幕府の成立に大きく寄与したのに、武蔵武士の幕府での政治生命は短かった。
その典型が比企一族である。
比企一族と源氏との関係は、比企尼(ひきのあま)が、頼朝が生まれた時から乳母になったことに始まる。
比企尼は、比企遠宗の妻だった。遠宗は源為義、義朝父子に仕え、義朝に頼朝が生まれると、比企尼は乳母になった。
頼朝が13歳で伊豆に流されると、遠宗は比企郡の郡司職を得て、比企尼と共に、比企郡に来た。遠宗は先に死んだが、比企尼は頼朝が33歳で平家追討の兵を挙げるまで20年もの間、比企一族とともに比企ー伊豆の遠い道を生活物資を背負って届けた。乳母とは単に母乳を与えるだけではなかったのだ。
頼朝の生母由良御前(実家は熱田大神宮)は、頼朝が12歳の時に死んでおり、熱田大神宮からは何の援助もなかった。頼朝を支えたのは比企の尼だけだった。尼は実の母のような愛情を注いだのだった。
恩にきた着た頼朝は、比企尼を鎌倉に呼び寄せ、尼の甥で養子の比企能員(よしかず)を御家人に取り立て、特に重用した。
北条政子が頼家を出産したのは、比企尼の邸だったほどの親密さだった。
能員の娘は、頼朝の長男頼家の側室になり、長男一幡(いちまん)を生むと、能員の妻は頼家の乳母になった。頼朝没後は外祖父として北条氏を上回る権力を持つようになった。
1203年、病弱な頼家が急病で危篤になると、北条時政は、頼家を廃嫡し、頼家の弟実朝に関西38か国の地頭職を、関東28か国の地頭職と総守護職を頼家の長子一幡にと家督を分与すると定めた。
この決定に不満を持った能員は、病床の頼家に時政の専横を訴え、時政追討の許諾を得た。
これを障子を隔てて聞いていた政子が時政に通報、時政は先手を打って、能員を仏事にかこつけて呼び出し、殺害した。
比企一族は、一幡の屋敷に立てこもったが、一幡とともに滅亡した。「比企氏の乱」「比企能員の変」である。
能員が仏事にかこつけて呼び出された際、平服だったことなどから、この変は北条氏側の陰謀だったのではないかと見る向きも多い。
頼家は将軍の地位を奪われ、時政のために伊豆の修善寺へ幽閉され、殺害された。
比企一族を殺戮した北条氏は、その後比企氏の怨霊に悩まされることになるが、当然のことであろう。
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