天守閣などはないものの、戦国時代の平山城(ひらやまじろ)の面影を濃厚に伝えるという鉢形城跡を12年の秋晴れの日に訪ねた。
東武東上線の終点の寄居駅から入り口まで歩いて20分余。荒川を越え、城跡に通ずる正喜橋から眺める峡谷下の玉淀河原の眺めが素晴らしい。
「田舎教師」で知られる田山花袋が、紀行文で「東京付近でこれほど雄大な眺めを持つ峡谷はない」と激賞しているというのがうなずける。花袋の漢詩を刻んだ大きな石碑が、荒川を見下ろす本曲輪(くるわ)の跡に立っている。
鉢形城は、「遺構の残存状況が極めて良好」な戦国時代の代表的な平山城の跡として、1932(昭和7)年、国の史跡に指定された。(写真)
06(平成18)年には、「日本100名城」の一つに選定されている。
正喜橋から荒川の上流の西岸に広がる城郭跡は約24万平方m。関東で有数の規模を誇る。荒川と、荒川に合流する深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれ、荒川側は天然の要害になっている。正喜橋から見ると良く分かる。
1476年、関東管領(政務を総括)だった山内(やまのうち)上杉氏の家臣長尾景春が築城したと伝えられる。小田原にいた北条氏康の四男氏邦が整備拡充、関東屈指の名城といわれた。
上州や甲斐、信濃をにらむ交通の要衝でもあり、後北条氏が北関東支配の拠点とした。
戦略的に重要な拠点なので、戦国時代の有名な武将もこの城を攻めている。大田道灌、武田信玄、上杉謙信。道灌を除けば攻め落としていない。それは整備拡充の前である。
最も有名なのは、1590年、前田利家や上杉景勝ら豊臣勢5万の連合軍による城攻めである。豊臣秀吉の小田原征伐の際、小田原の北条早雲の重要な支城だったからだ。
城に籠もった総兵力は3千500。1か月余の攻防戦の後、氏邦は城兵の助命を条件に開城した。
毎年5月中下旬の一日、鉢形城に縁のある人や町民ら約500人が、当時の鎧武者姿で町内をパレードした後、荒川を挟んで攻防戦を展開する。
「寄居北条まつり」と呼ばれる。
8月の第一土曜日には、この河原で数百の提灯で飾られた船山車が川面に浮かべられ、花火が打ち上げられる「玉淀水天宮祭」もある。「関東一の水祭り」と呼ばれる。
城跡は、「鉢形城公園」として整備されていて、エドヒガンの古木や、ソメイヨシノの並木、花木約210種が植えられた花木園、カタクリの群生地もあるので、雑木林の下を歩くのは楽しい。
北西端の三の曲輪には、四脚門と約200mの石積土塁が復元されている。城の内堀だった深沢川沿いは激しい渓流が岩盤をけずり、多くの淵を造っていて、「四十八釜」という町指定名勝になっている。夏など時間があれば、訪ねてみたい。
散歩の前か後に「鉢形城歴史館」に立ち寄ると、この城の構造や歴史などが映像で良く分かる。
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