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塙保己一 グラハム・ベル

2010年05月11日 10時01分47秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 
塙保己一 グラハム・ベル

それではヘレン・ケラーはどうして保己一のことを知っていたのだろうか。

保己一についての著書が多い元埼玉県立盲学校長の堺正一氏は「奇跡の人・塙保己一 ヘレン・ケラーが心の支えとした日本人」(埼玉新聞社)の中で、「電話の発明者として有名なグラハム・ベル博士が、ヘレンの母親に保己一のことを話して聞かせ、励ましたようだ」と推測している。

氏には、この他にも「今に生きる塙保己一 盲目の大学者に学ぶ」(同社)などの著書があり、このシリーズもこれらの本によるところが多い。

ベル博士の本職は、実は聴覚障害者教育の専門家で、全障害をその教育に捧げた。その博士から明治の初め、文部省から派遣されていた伊沢修二という人が教えを受けていた。
1876年、博士が初めて電話の実験で通話した相手はこの人だったと言われるほど、博士と親しい間柄だったので、「日本には幼くして失明したのにめげず、大学者になった人がいる」と話していたのではないか。

博士は、ヘレンの家族ととても親しい仲で、ヘレンの最初の先生でもあったという。ヘレンの先生になった有名なサリバン先生がヘレンのうちに紹介されたのも博士の力添えによるものだった。

ヘレンは1937年の埼玉会館での講演で、「母から塙先生のことを聞き、先生を目標にがんばってごらんなさい」と励まされたと語っている。

伊沢は帰国後、文部省の編輯(編集)局長などを歴任し、教科書の編集責任者を務めた。

1887(明治20)年の文部省発行の「尋常小学校読本巻之三」には、保己一が弟子たちに源氏物語の講義をしていた際、風でロウソクの火が消えてしまった。弟子たちがあわてているのを察して、保己一が「目が見えるということは、不便なことですね」と言った有名な逸話が紹介されている。

ヘレンは、同じ講演の中でこの逸話を引用しているので、伊沢が編集したこの教科書の逸話のことも知っていたのではなかろうか。

伊沢は、国立東京盲唖学校の校長も務めた。西洋音楽を日本へ移植した人でもあり、「小学唱歌集」を編纂、東京師範学校や東京音楽学校の校長も歴任した


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