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慈光寺 ときがわ町

2010年11月27日 14時04分16秒 | 寺社
慈光寺 ときがわ町

武蔵嵐山に紅葉狩りに出かけた翌日の小春日和の10年11月25日、今度も比企路は、ときがわ町の古刹「慈光寺」を、八高線明覚(みょうかく)駅を起点に徒歩で訪ねた。

いかにも抹香臭い名前ながら、「関東の駅百選」に選ばれた面白いデザインの駅である。すばらしい悟りを意味する「妙覚」のことだとか。

開山以来1300年。源頼朝が奥州藤原泰衡(やすひら)討伐を祈願、その寄進を受けて、75坊を持つ関東屈指の大寺院として栄えていた。

境内に東国最古の禅寺「霊山(りょうぜん)院」(臨済宗)があり、紅葉がすばらしい。この院は、慈光寺の塔頭(たっちゅう、高僧が引退後に住む子院)として創建されたという。

比企路と言っても、埼玉県人でも分からない人が多い。「日本スリーデーマーチ」のウォーキングで有名な東松山市を中心に比企郡の滑川、嵐山、小川、ときがわ、鳩山、川島、吉見の7町と秩父郡ながら県内唯一の村である東秩父村も入っている。

埼玉県は日本一、市の数が多い。ところが、比企地方で市は東松山だけで、自然が豊かな丘陵地帯が広がる。滑川は「国営武蔵丘陵公園」、嵐山は武蔵嵐山のほか、頼朝の御家人畠山重忠の館という「菅谷館跡」、小川は和紙、吉見は百穴で知られる。

「比企」の名は武蔵国比企郡を本拠とした比企氏にちなむ。比企禅尼が頼朝の乳母を務めたので、尼の子比企能員(よしかず)は頼朝の最も有力なご家人となり、権勢を誇った。北条時政との対立から「比企能員の変」が起こり、比企一族は滅亡する。

畠山重忠、比企能員に見られるように源氏ゆかりの武将が出た地で、嵐山町の鎌形八幡神社には木曽義仲の産湯の清水がある。

慈光寺を昔から知っていたわけではない。埼玉県に全国一数が多い板碑(青石塔婆)に興味を持って調べているうち、この寺の山門跡に1m余から3mに近い高さの9基の大型板碑が群立しているのを見て以来、一度は訪ねてみたいと思っていた。(写真)

板碑は武士だけのものと思いこんでいた。この9基はいずれも寺ゆかりの僧侶の供養や,生前、自らの死後の往生を願う、いわゆる逆修(ぎゃくしゅ)供養のために造立され、明治の初期に山中の僧坊から移されたという説明板があった。やはり実際に来てみるものである。

県内随一の古刹、慈光寺は武蔵国天台別院(本山の出張所)。関東屈指の天台宗寺院だった。有名な渡来僧鑑真の高弟、釈道忠が建立したと伝えられる。道忠は天台宗開祖の伝教大師最澄の布教を助けた僧で、朝鮮半島からの渡来人ではなかったかと言われている。

道忠の弟子円澄は比叡山延暦寺に上って、最澄の弟子になった後、第2代天台宗座主(ざす)になった。円澄は壬生氏の出身で、武蔵国埼玉郡の人だったという。京から遠く離れた、こんなへんぴな地にある慈光寺と初期の天台宗や延暦寺との深い結び付きに驚くばかりだ。

この寺は、戦国時代には僧兵を持ち、近隣の城主と抗争を繰り返した。太田道灌が討ち入ったり、小田原北条家の臣下だった近くの松山城主の焼き討ちに会い、衰退した。

慈光寺は、この地の政治、経済、文化の中心だった。その伝統や技術は、林業が盛んなときがわ町の建具、小川町の手すき和紙、狭山茶などに生きているという。和紙は、寺の写経用の需要があった。

日本三大装飾経として知られる国宝の法華経一品(いっぽん)経を初め、関東最古の銅鐘など国指定の重要文化財が残っている。室町時代の木造多宝塔では唯一の、国重要文化財の開山塔、樹齢1100年を超すタラヨウの古木もある。

季節には参道に、シャガの群生や里桜(八重桜)の並木が花開く。里桜とは、野生の桜の園芸品種。1986年に最もポピュラーな「一葉」と「普賢象(ふげんぞう)」270本を植えたのが始まりで、自生の染井吉野を含め42種400本の里桜が咲く。珍しい「薄毛大島」とか「松前紅玉錦」などもあるそうだ。

「ソメイヨシノだけが桜ではない」と思う人には、お勧めしたい花見どころでもある。


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