ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

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高麗神社 出世明神 

2010年11月01日 18時32分40秒 | 寺社
出世明神 高麗神社  

高麗神社を訪ねて、面白いのは、ここにどんな人が参拝したかを確かめることである。

京都、奈良、東京などの大寺社とは違う、このようなひなびた神社で、これほど過去の有名人の名が見つかるのは珍しい。

神社の木々の前に、献木の小柱が立っていて、名前が明記してあるからだ。首相経験者では若槻礼次郎、浜口雄幸、斉藤実、平沼騏一郎、小磯国昭、鳩山一郎の6人も来たらしい。小磯は、本殿に向かって左手の参拝した「名士芳名」の中の名札では「朝鮮総督」の肩書きが付いている。このように参拝者から総理大臣が続出したので、この寺は「出世明神」の名で一躍知られるようになった。

政界だけではない。法曹界も石田和人最高裁長官や検事総長になった人も二人いる。官界や財界にもご利益のあった人もいるようだ。歴代の埼玉県知事や日高市の市長、韓国大使も挨拶に姿を見せたことが、小柱を見ると分かる。

国民新聞を創刊した徳富蘇峰らも来ている。

暇に任せて、名士芳名を眺めると面白い。名士芳名の一番先の方に、「太宰治」「坂口安吾」「檀一雄」といった第二次大戦後の文壇を風靡した“無頼派”の面々の札も並んでいるのに驚く。(写真)この面々はどんな出世を願って来たのだろうか。「芥川賞が欲しい」と祈願したのだろうか。

ちょっと古くなるが、尾崎紅葉の献木ならぬ「歌木」の小柱もある。尾崎紅葉は歌人だったかなと考えてしまう。皇太子ら皇室の参拝も目立つ。

何度も書いてきたように、この神社は、716年に高麗郡が武蔵国に設置された際の初代郡司、高麗若光を祀る。以来60代、若光の子孫が宮司を務め、現在は高麗文康氏。

文康氏は13年、若光のことを「陽光の剣 高麗王若光物語」(幹書房)に書き記した。

その歴史年表によると、高句麗が新羅・唐の連合軍に滅ぼされたのは668年。若光はその2年前の666年に、高句麗遣使(副使)として来日、日本からの援助について交渉していた。来日中に祖国は滅びたわけである。

交渉の中で中大兄皇子(天智天皇)や大海人皇子(天武天皇)とも知り合った。若光は「王」の姓を賜った。日本各地に散らばっていた高麗人1799人を武蔵国に移し、高麗郡が置かれたのは716年のことだった。

この高麗郡が2016年、建郡1300年を迎えた。ろくな観光地がない埼玉県にはまたとないチャンスである。奈良とはケタ違いとはいえ、1300年をどううまく利用するかは、知恵の絞りようだ。

日高市は、目玉として「高麗鍋」のPRに乗り出した。「キムチ味」で、「地場産の野菜と特産品が入っていて」、なんと「高麗(こうらい)人参も入っている」が三原則。「ピリ辛でもとってもヘルシーよ」「歴史のロマンをめしあがれ」というのが、うたい文句だ

私が高麗神社、いや神社のことがこれほど気にかかるのは、薩摩は隼人の出身で、「彬裕(よしひろ)」という難し過ぎて誰も読めたことのない私の名は鹿児島神宮(隼人)の宮司がつけたからである。神社には生まれた頃からなじんでいる。

南方系と朝鮮半島系、遺伝子も違う。それでも親近感を覚えるのは、無神論者ながら、神社への親しみとともに、遠く離れた故郷への郷愁があるからである。


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