新古今和歌集の部屋

うすくこき 宮内卿の歿年3 宮内卿死去の疑問

4 宮内卿死去の疑問
前述の同時代を生きた鴨長明が執筆した無名抄 俊成卿女宮内卿兩人歌讀替事に
此人はあまり歌を深く案じて病に成りて、一度は死に外れしたりき。父の禪門何事も身のありての上の事にこそ。かくしも病になるまでは、いかに案じ給ふぞ。と諫められけれども用ゐず、終に命もやなくてやみにしは、そのつもりにや有りけん。寂蓮は此事をいみじがりて、兄人の具親少將の、哥に心を入れぬをぞ憎み侍し。
とある。
実は、寂蓮は建仁二年七月二十日没。宮内卿は詠歌活動中である。「終に命もやなくてやみにし」を「寂蓮は此事をいみじがりて」となると、寂蓮の死去前に宮内卿が死んでいなければならなくなる。
寂蓮と長明は、和歌を通じてとても仲がよく、同じく無名抄會歌姿分事によると、長明は三体和歌の提出前に寂蓮に見せている。三体和歌は、後鳥羽院から三体の歌体に分けて詠歌するように要求され、当時の歌人達も逃げて参加せず、九条良経、慈円、藤原定家、藤原家隆、寂蓮、長明だけだったとある。
実はこの三体和歌は、建仁二年三月二十日に開催されている。宮内卿の詠歌が建仁二年正月十五日から4ヶ月止まっていた時期になる。
これを宮内卿の「病に成りて、一度は死に外れしたりき。」した時と考えた場合、合理的に説明がつく。源家長日記によれば、「常の和歌の会に歌參らせなどすれば、まかり出づることもなく、よるひる奉公おこたらず」と和歌所に常に出勤していた事から、同じく寄人となっていた宮内卿の兄の具親から情報を聞き出し、寂蓮と噂していたのでは無いだろうか。六百番歌合で顕昭と所謂独古鎌首論争した程の歌に対してまじめな寂蓮にとって、後鳥羽院が主催した老若五十首歌合は、若年者との対戦を、後鳥羽院への和歌の指導と考えて参加したのでは無いだろうか。後鳥羽院以外の聞いたこともないような若手、十五、六歳の小娘の歌を始めは馬鹿にしていたのでは無いだろうか。それが、十戦中二敗五引分、天台座主慈円(当時は権僧正)に対しても実質的に勝の持4と言う驚異的な成績になってしまったので、宮内卿の歌に対する興味は増し、甥の定家、姪の俊成女並みに彼女の将来への期待が大きかったのでは無いだろうか。「寂蓮は此事をいみじがり」と長明が記す程になったと推察される。
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