新古今集羈旅歌の『袖吹き返す』の後三首(家隆、雅経、家長)は、元久元年十一月北野宮歌合の題は羈旅で有り、本来は家隆の詞書にその旨記載されるべきであるが、漏れている。
久保田純は、全評釈の中で「『北野宮歌合』での詠であるから、その旨の詞書があるべきで、それがない理由は不明である。」としている。
『袖吹き返す』が、後から切り入られたとして、その際、後ろの詞書が間違って削除されたとすれば、説明がつく。
この二首には、通隆雅、有隆雅と撰者名がついている。後から切り入られたとすれば、撰者名がつかないはずで、切入歌とするには、大きな疑問である。しかし、定家が提出した十首を他の撰者に撰ばせ、後鳥羽院が決めたとすれば撰者名注記の理由がつく。
攝政太政大臣大納言に侍りける時山家雪といふこと
をよませ侍りけるに
待つ人のふもとの道は絶えぬらむ軒端の杉に雪おもるなり
隠 通隆雅
旅歌とてよめる
旅人の袖吹きかへす秋かぜに夕日さびしき山のかけはし
隠 有隆雅
後鳥羽御口伝によればこの歌もこの時切り入れられた可能性がある。もっとも定家は、入撰をかなり反対したと後鳥羽院は言っているので、四月八日条には記載されなかったとも考えられる。
近衛司にて年久しくなりて後うへのをのこども大内
の花見に罷れりけるによめる
春を經てみゆきに馴るる花の蔭ふりゆく身をもあはれとや思ふ
隠 雅
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