岩波講座 日本文學
軍記物語研究 五十嵐力
岩波書店
岩波
講座 日本文學
第十回配本
初版:昭和7年3月15日
発行:岩波書店
概要メモ
軍記の萌芽を、口誦文学として古事記、日本紀の中に見られるが、戦争だけを切り離して一篇文書にまとめられた物を将門記として、次に今昔物語集の第二十五巻を挙げ、保元、平治と繋がり、平家となっているとしてそれぞれを分析している。
平家の周囲を探るうち、鴨長明の方丈記との関連を見出した。
平家物語の成立年代、平家の漢語と俗語、雅語の文体の混合、平家の七五調、そして平家の木曽殿最後を取り上げて分析している。
最後に平家と後世の比較を、平家の木曽殿最後と、太平記の新田義貞討死、太閤記の今川義元討死、真田三代記の木村重成の討死をあげ、「敗軍の美、最後の美に見出してゐる」
方丈記の関連抜粋
六
かうしてあてどもなく『平家』の周圍をあるいて居る中に、ふと思ひついたのは鴨長明の『方丈記』である。…略…。私は考へた。あの『方丈記』の趣向が『平家』の作者に取られたのではないか。あの無常思想で全篇を一貫した趣向、初めに撮要された名調子の人生観を見せ、次にその人生觀を見せ、次ぎに其の人生觀の數衍とも證明とも見らるべき事實を詳記史、最後に低き安んずるつゞましい心構と、大悲者に縋る可憐なあこがれとを寫した趣向が、慧敏なる『平家』の作者の眼を射て、射ると共に脳裡に収められ、それが換骨され、奪胎され、培養され、擴大され、幾層倍かの趣味と威力を加へられて、『平家物語』となつたのではないかと。『平家』の作者は『方丈記』を見て考へたであろう。いみじき種子こそ芽生えたれ。よい前駆者こそ現はれたれ。我れは彼れが小處に用ゐたところを大處に用ゐるであらう。彼れが個人生活の轉變に用ゐた所を、一大氏族の盛衰に用ゐ、京都内外の小區域に用ゐた所を六十餘州の全土に用ゐるであろうと。かくして彼れは「行く川の流れ」に換ふるに「祇園精舎の鐘の聲」を以て史、五大災厄を當時の世相一般に擴大し、長明一人が生活の推移をば公卿武家の生活全體に擴大史、最後の遁世捨身して、幾ばくもなき餘生の山の端に、斷えぬ光を見ようとした結語をば、六代の被斬、平家の子孫の永絶、及び女院の御往生に見直さうとしたのであろう。『平家』の作者が、大火、地震その他の災厄を記した文章を、殆どそつくり『方丈記』から借りたことは、疑ふべからざる事實である。厄災の記事を活剝接種した『平家』の作者が、『方丈記』に熟し『方丈記』を愛してゐたことは爭はれぬ事であらう。從つて『方丈記』を熟知し親愛してゐた『平家』の作者が、意識してか、意識せずにか、とにかく『方丈記』の創始した「人生觀的趣味の統一」を採り入れたと見るのは、必ずしも無理ならぬ想像であらう。私は『方丈記』が慶滋保胤の「池亭記」に負ふところがある以上に、『平家』が『方丈記』に追ふ所があつたと考へる。『方丈記』は公卿の遊びなる「池亭記」を換質して、命をかけ魂をうち込んだ更生記とした。而して『平家物語』は、個人の更生記なる『方丈記』に量を加へ、位を高め、力を添へて、六十餘州に盤踞した平家一門の盛衰記とはしたのである。
七
『方丈記』の出來は、
時に建暦の二年三月晦日ごろ、桑門蓮胤外山の庵にしてこれをしるす。
といふ結尾の書添によつて建暦二年たることが明らかである。『平家物語』の成立は、恐らく承久の前後であつたであろう。かりに承久の元年として、建暦二年との間には七年の隔たりがあるが、その間に『平家』の出來た消息は、或は、かうもあつたであらうか。
…略…。
斯様な事に關する絶對的斷定は、今のところ到底爲し得ざる事ではあるが、彼れ是れ綜合した結果、私には、やはり『平家』の原形は、承久の少し前、『方丈記』の出來た四五年後に成立つたかのやうに思はれる。此の年代關係を表に示すと、左の通りである。
建久十年(一八五九) 正月十三日頼朝薨
承元四年(一八七○) 順徳天皇御即位
建暦元年(一八七一)
建暦二年(一八七二) 方丈記成る
建保元年(一八七三)
…略…
承久元年(一八七九) 源實朝弑せられ、藤原頼經迎へ立てらる
同 二年(一八八○)
同 三年(一八八一) 承久の亂
建長四年(一九一二) 將軍頼經廢せられ、宗尊親王迎へ立てらる
※漢数字は、皇紀表記だと推察される。承久の乱は、1221年で+660年で皇紀となる。
かう書き竝べて見てゐると、私には一つの幻想が浮かんで來る。「建暦二年に鴨長明が『方丈記』を書いて、それが月を追ひ年を追うて流布して行く。丁度その時分か、或は其の少し前に、葉室時長が『保元物語』『平治物語』を書いたが、それも『方丈記』と相竝んで年を追うて流布したのであらう。之れを見て喜んだのは『平家』の作者信濃前司行長である。彼れは大比叡の嶺から、眼下の都と宇治の彼方の日野山とを等分に見較べつゝ考へた。『保元』『平治』は武人が新興の意氣を歌つて、戦場の駈引を目に視るやうに寫してはゐるが、唯だそれだけだ。『方丈記』は消極獨善の生活を面白く書いて、それを無常無哀の人生觀で美しく締め括つては居るが、それは落伍者の泣き言で、のみならず見る影もなき世に捨てられ人、一個人の生活の描寫である。武人、戦争の壮烈な光景の描寫でも、原理に統一されぬ散り/\バラ/\では何にならう。原理の統一がいみじく出來ても、痩せ法師が引近み思案の合理化は餘リに見窄らしい。我れは此の二つを兼ね併せるであらう。新興武人の心意氣と彼等が壮快なる戦場の駈引きとを存分に歌つて、之れを一種の統一原理で締括つてやるであらう。それに相應はしい材料は平家の盛衰だ。『保元』『平治』の作家に書き殘された大平家の大いに榮えて、どか落ちに落ちて滅びた。あの運命だ。あの盛衰が昇り運と降り運とのすさまじい姿を見せて居るこそ幸ひ、我れは長明の蓮胤法師が穴籠りをなしつゝ蟲の息で歌つた諸行無常の人生觀を擴張し、之れを統一原理として六十餘州に盤踞した平家の運命を歌ふであらう。佛教宣傳、勧善懲惡、政治道徳の鼓吹、迷信的な宿命觀、これらの非藝術的な、内容に即せぬ、押賣的の、干渉がましい理屈を統一原理とする事は我が屑しとせざる所である。諸行無常盛者必衰!これこそ大聖釋尊の金口に道破された東西古今に通じた眞理で、保元より壽永に至る我が最近世相のまざ/\と見せて居るところ、平家の一族が此の二十年間に身を以て實證してゐるところ、しかも此の間に生起した一々の事實に即するのみならず、藝術的原理としても第一義的の最も相應はしいものである。物は全て三段の順序を取つて進む。立(thesis)、對立(antithesis)に調和(synthesis)だ。新興の意氣を負うて新時代の檜舞臺に立つた武人の活動を寫した保元平治の物語は「立」のシーシスだ。時代に忘れられ虐げられた弱者、逃避者の泣言を寫した『方丈記』は「對立」のアンテシーシスだ。殆んど統一原理なしに事を寫した『保元』『平治』はシーシスだ。特得の統一原理で十二分に内容を支配した『方丈記』はアンテシーシスだ。我れは此の二つを統べた調和、兼備、統一のシンセシスを我が作に現はすであらう。而して我が題材となる「平家」が、心も詞も及ばれぬ榮華と没落とを一身に兼ね備へて、此の統一原理の應用を待ち設けるかのやうに見えるのは、何といふ幸であらう。
…略…」
…略…。そしてかやうな考へから『平家物語』の成立の模様をば、先づ頼朝が死んでから凡そ十年といふ建暦の初め頃に『保元』『平治』の物語が出來る。『平家』の作者が且つ驚き且つ悦びつゝ創作慾の擡頭を感じてゐる處へ、やがて『方丈記』が現はれる。消極生活の取扱方に味を感じ、殊に統一原理の油斷なき使ひこなしに限りなく興味を感じて、彼れと是れとを讀み比べ味はひ較べる中に、ふと後者を統一原理とした新軍記の創作といふ大望に燃えはじめ、それから材料の蒐集整理、文體の集大成、文章の精錬、及至特殊方面の記事起稿の依頼などいふことに、嬉しい昻奮の忙しさを數年間引きつゞけて、『方丈記』が出でて後五六年といふ建保の五年前後n最初の原作が出來たのであらう。など空想して、喜んでゐるのであります。