十六夜日記
今日は、十六日の夜なりけり。いと苦しくて、うち臥しぬ。いまだ月の光かすかに残りたる明ぼのに、守山を出でて行く。野洲川渡る程、先立ちて行旅人の駒の足音ばかりさやかにて、霧いと深し。
旅人も皆もろともに先立ちて駒うち渡す野洲の川霧
十七日の夜は、小野ゝ宿といふ所にとゞまる。月出て山の峰に立ち続きたる松の木の間、けぢめ見えていと面白し。
こゝも夜深き霧の迷ひにたどり出でつ。醒が井といふ水、夏ならば打過ぎまじやと思ふに徒歩人は猶立寄りて汲むめり。
結ぶ手に濁る心をすゝぎなば憂き世の夢や醒が井の水
と覚ゆる。
(関の藤川)
十八日、美濃国関の藤河渡る程に、先づ思ひ続けゝる。
わが子ども君に仕へんためならで渡らましやは関の藤河
不破の関屋の板庇は、今も変はらざりけり。
ひま多き不破の関屋はこの程の時雨も月もいかにもるらむ
関よりかきくらしつる雨、時雨に過て降くらせば、道もいと悪しくて、心より外に笠縫のむまやといふ所にとゞまる。
旅人は蓑うち払ふ夕暮の雨に宿借る笠縫の里
巻第十七 雜歌中
和歌所の歌合に關路秋風といふことを
人住まぬ不破の關屋の板びさし荒れにし後はただ秋の風
よみ:ひとすまぬふわのせきやのいたびさしあれにしあとはただあきのかぜ 雅 隠
意味:人が住まなくなった不破の関の板の庇に、すっかり荒れてしまった後は、ただ秋風だけが寂しく吹いている。
備考:和歌所影供歌合。不破の関は岐阜県関ヶ原町松尾に有った関所。歌枕名寄、新三十六人歌合、定家十体の面白様の例歌、美濃の家苞、常縁原撰本新古今和歌集聞書、新古今抜書抄、新古今注、九代抄、九代集抄、聞書連歌、古今和歌集抄出聞書(陽明文庫)
※関の藤河(藤古川) 歌枕
古今集 神遊歌
かへしものゝうた
美濃の国せきの藤川絶えずして君につかへむ万代までに
※笠縫のむまや
大垣市笠縫町にあった駅
阿仏尼の著。作者が亡夫藤原為家との間にもうけた愛児為相のため、播磨国細川庄(兵庫県三木市細川町)の相続権を異腹の長子為氏と争い、1279年(弘安2)訴訟のため鎌倉に下ったときの紀行的日記。序章と下向の道の記、鎌倉月影の谷滞在中の望郷の記、勝訴を鶴岡八幡宮に祈り幕府の善政を願う長歌の3部からなる。1、2部は弘安2年から3年にかけて成ったかとみられ、第3部の長歌は5年春の作。書名は、出立に際しての心境「身をえうなきものになし果てて、ゆくりもなく、いさよふ月にさそはれ」にちなむ後人の命名ともいわれる。別名『路次記(ろじのき)』『阿仏房紀行』『いさよひの記』など。母性愛と歌道家後室の自覚とに支えられた意志的女性の日記として特色があり、道の記に収める多くの和歌は、為相らに歌枕とその詠み方を教える教科書的意図をもつという見方もなされている。「ささがにの蜘蛛手あやふき八橋を夕暮かけてわたりぬるかな」。また鎌倉滞在中の詠「忍び音は比企の谷なる時鳥雲井に高くいつか名のらん」はその真情を示す。細川庄訴訟は阿仏尼の没後1289年(正応2)為相の勝訴が認められ、なお紛糾したが1313年(正和2)最終的に勝訴と決した。