せいちうぎ し でん とくださだゑもんゆきたか
誠 忠 義 士 傅 德 田 貞 右 衛 門 行 高
德田行高は水練に達したり高野
師直の首を討て両北橋まで
引取しに上住の人数討手に
向ふと注進の者ありければ
用意の小舟に片岡傳五
右エ門千崎弥五郎德田
貞右エ門等首級を守護
して舩を仙覚寺に急ぎ
ける残る義士等の四十
余人は一所懸命の
地を一寸も引退く心
なき死を一ツにする義勇
なれば屯し躊躇けれども寺
にては狼狽騒ぐ体又討手も向に
光景ならねば人数をまとめ悠〃として
列を乱さず川端より築地を差て
司馬仙覚寺へ急げり
應受 一筆葊誌
一勇齋
國芳画
堀江町 二十
海老林
歌川国芳画 芳桐印
弘化4年~嘉永5年
一筆庵英泉 文
版元
海老屋林之助
千葉市美術館所蔵品説明
『仮名手本忠臣蔵』でおなじみの赤穂義士四十七人に塩冶判官・高師直等を加えた全51枚のシリーズ。嘉永元年(1848)春の高輪泉岳寺の開帳に当てこんで出版されたもの。『藤岡屋日記』の嘉永元年の条に、
当春中、泉岳寺開帳之節も、義士の画色々出候へ共、何れも当らず、其内にて、堀江町二丁目佐兵衛店、団扇問屋にて、海老屋林之助板元にて、作者一筆庵英泉、画師国芳にて、誠忠義士伝と号、義士四十七人之外に判官・師直・勘平が亡魂、并近松勘六が下部の広三郎が密柑を配り候処迄、出入都合五十一枚続、去未年七月十四日より売出し、当申の三月迄配り候処、大評判にて凡八千枚通り擦込也、五十一番にて紙数四十万八千枚売れるなり、是近年の大当たり大評判なり。
誠忠で小金のつるを堀江町 ぎしぎしつめる福はうちはや
と記されているとおり、この企画だけ大ヒットであったようだ。版元の海老林も、最後に出版された「五十 芳田忠左衛門兼両」の中で次のように刻して感謝の辞を述べている。
版元伏禀、此誠忠義士伝、未の七月出版せしに時好に称ひ世評高く、おなじ同十二月十四日迄に四十七士悉く全す、翼は続を発市の外伝も高評を玉はば幸甚。
江戸東京博物館
誠忠義士伝
約37cm×26cm
平成31年2月5日 參點九
コメント一覧
最新の画像もっと見る
最近の「その他」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事