新古今和歌集の部屋

切入歌の推定 明月記五月四日慈円歌7



5 切り入れ歌の推計
田渕句美子氏は、「『明月記』(元久二年五月~閏七月)を読む」の解説の中で、当時の明月記や砂厳などの記載と現存の歌人の歌数のかなりの差から、「歌自体も相当入れ替わっていると見るべきであろう。」(同書六三頁下段)と推察している。
五月四日の慈円切入歌についても「撰者名注記のない歌(それは基本的には竟宴後に切り入れられた歌である可能性の高いことを意味している)」(六四頁上段)として、春日社歌合、治承題百首、六百番歌合などを候補としつつ、「しかしこれも、この時に切り入れられた慈円歌が現存の『新古今集』にそのままあるとは確言できないので、あくまで可能性でしかない。」(同頁同段)と現存の新古今和歌集慈円歌数と『慈鎮和尚自歌合』跋記載歌数との差を示し、慎重な姿勢を記している。
猶、鎌倉の源実朝に贈られた新古今和歌集について、「この鎌倉本『新古今集』は、現在知られていないが、もしその伝本の断簡があったとしても、その部分によっては、すぐには『新古今集』であるとはわからないかもしれない。」(同頁中段)として、後の鶴見大学久保木秀夫准教授の発見を予言している。
以上述べてきた通り、撰者名注記、隠岐本合点は異本毎の異同が多く闕落も多い上に現在の歌がそのまま竟宴時にあったとは限らないなど不確定要素が多い。そこで可能性の大小から見る。
可能性の歌は以下の通りである。猶、番号は國歌大観番号である。
95  春歌上 仙洞句題五十首
282  夏歌  千五百番歌合
559  冬歌  元久元年春日社歌合
699  冬歌  治承題百首
1327 恋歌四 六百番歌合
1330 恋歌四 六百番歌合
1754 雑歌下 四季雑二十首都合百首
1904 神祇歌 日吉百首(文治三年)
1943 法華経廿八品歌
の9首となるであろう。
95、282と1754は、烏丸本、尊経閣本、柳瀬本に撰者名注記があるが、小宮本に無い。
1904は、柳瀬本、小宮本に撰者名注記があるが、烏丸本には無く、尊経閣本は闕く。
95は全ての本の隠岐本合点が無い。
1330は柳瀬本には隠岐本合点があるが、他は無い。
1754は烏丸本のみ隠岐本合点があるが、小宮本には無く、柳瀬本は闕く。
以上から、この中で一番可能性が低いのは95で、次が282、1594となり、1794、1904が続く。
残り4首の内、九条良経が切入れた可能性がある1327、1943が留保とする。
共に冬歌の559元久元年春日社歌合と699治承題百首の内、春日社歌合を見た場合、主催者が後鳥羽院である事が重要なキーワードとなるであろう。
一方、建久四年詠歌の治承題百首は、12年も前の百首歌のうちの1首である。突然五月四日に思い出したように入撰を命じるのは唐突過ぎる。当時後鳥羽院は、新古今時代、千載集時代、三代集時代、万葉集時代のバランスを意識し始めていた節がある。明月記によると三月二日には、撰者の歌目録を出させ、五日には故者目録を作らせ、九日には撰者から歌を撰進させて、閏七月二十四日には千載集時代の俊恵らの歌数を抜き出させている。
大歌人である西行、俊成は後鳥羽院にとっては尊敬すべきであっても後白河院時代の歌人であり、対抗できるのは、慈円、良経、そして五人の撰者である。
慈円の歌数が少ないと感じた時に、加えようと思うのは、12年前の歌より半年前に自分が主催した春日社歌合から選んだと考えるべきであろう。
従って、元久二年五月四日に後鳥羽院が切入れた歌は、
巻第六 冬歌
木の葉散る宿にかたしく袖の色をありとも知らでゆく嵐かな
を第一の候補と推定する。

(参考文献)
明月記研究  記録と文学10号(2006年12月)
『明月記』(元久二年五月~閏七月)を読む
明月記研究会 編  八木書店
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