難波人芦火たく屋に宿かりてすゞろに袖のしほたるゝ哉
仙人のおる袖にほふ菊の露うちはらふにも千代はへぬべし
希にくる夜はもかなしき松風を絶えずや苔の下に聞らん
たちかへり又もきてみん松しまやをじまの苫や波に荒すな
ちらすなよしのゝは草のかりにても露かるゝべき袖のうへかは
俊成卿女
梅の花あかぬ色かも昔にておなじかたみの春の夜の月
あだにちるつゆの枕に臥侘びて鶉なく也とこの山かせ
自讃歌 私撰集。成立、編者とも未詳。鎌倉時代末期成立か。後鳥羽院が、定家など当時の代表的歌人一六人に、自作の中でよいとみずから認めている歌を各々一〇首ずつ奉らせ、院自身の歌を合わせて編んだとの序文のある、計一七〇首から成る歌集。その大部分は「新古今集」の歌。成立事情は信じられず、明らかに偽書であるが、宗祇らの注釈もある。
参考図書 国会図書館
- タイトル
- 「自讃歌」考
- 著者
- 石川 常彦
- 掲載誌名
- 文学 / 岩波書店 [編]
- 雑誌の出版情報
- 東京 : 岩波書店
- 巻号・年月日
- 47(7) 1979.07
- 掲載巻
- 47
- 掲載号
- 7
- 掲載ページ
- p59~78
新古今和歌集
羇旅歌
入道前關白家百首歌に旅のこころを
皇太后宮大夫俊成
難波人葦火たく屋にやどかりてすずろに袖のしほたるるかな
よみ:なにわびとあしびたくやにやどかりてすずろにそでのしおたるるかな 隠
備考:
入道先関白右大臣(兼実)家百首。すずろは、兼載、宗祇、石原とも様々な解釈があり、煤を匂わす、篠など縁語もある。本歌;難波人芦火焚く屋のすしてあれど己が妻こそ常めづらしき(万葉集巻第十一 拾遺集恋 人丸)
賀歌
文治六年女御入内屏風に
皇太后宮大夫俊成
やまびとの折る袖匂ふ菊の露うちはらふにも千世は経ぬべし
よみ:やまびとのおるそでにおうきくのつゆうちはらうにもちよはへぬべし 隠
備考:
文治六年女御入内御屏風和歌、九月菊。定家十体では、麗様。本歌:ぬれてほす山路の菊の露のまにいつかちとせを我はへにけむ(古今集 秋下 素性法師)。山人とは仙人の事で、菊露は不老長寿の薬としていた伝説による。
よみ:まれにくるよわもかなしきまつかぜをたえずやこけのしたにきくらむ 隠
備考:
定家母は、美福門院加賀で建久四年二月十三日死去。墓所は法性寺にあった。
羈旅歌
皇太后宮大夫俊成
立ちかへりまたも來て見む松島やをじまの苫屋波にあらすな
よみ:たちかえりまたもきてみむまつしまやおじまのとまやなみにあらすな 隠
備考:御室五十首歌。参考歌:年へつる苫屋も荒れてうき波のかへるかたにや身をたぐへまし(源氏物語明石 明石上)。松島や雄島のは、宮城県の歌枕の地。
恋歌二
入道前關白右大臣に侍りける時百首歌の中に忍ぶる恋
皇太后宮大夫俊成
散らすなよ篠の葉草のかりにても露かかるべき袖のうへかは
よみ:ちらすなよしののはぐさのかりにてもつゆかかるべきそでのうえかは 隠
備考
篠に忍ぶを響かせる。仮と刈りの懸詞。露は葉草の縁語で涙の比喩。定家十体の濃様。
千五百番歌合。本歌:よそにのみあはれとぞ見し梅の花あかぬ色香は折りてなりけり(古今集春歌上 祖世)。
秋歌下
題しらず
俊成卿女
あだに散る露のまくらに臥しわびて鶉鳴くなる床の山かぜ
よみ:あだにちるつゆのまくらにふしわびてうずらなくなるとこのやまかぜ 隠
備考:
とこの山は、近江の犬上郡の歌枕で、今の彦根市正法寺山と言われ、床を懸ける。「なくなり」は穂久邇文庫伝為氏本、鷹司本では、「なくなる(朱り)」となっている。
梶井宮尭胤親王 難波人
(長禄二年(1458年) - 永正十七年(1520年))
父は伏見宮貞成親王の子貞常親王。応仁2年(1468年)京都三千院で出家した。後花園天皇の猶子となって文明三年(1471年)親王宣下を受ける。明応二年(1493年)天台座主に就任し、焼失した比叡山根本中堂の再建に尽力した。
朝倉茂入?極
新編国歌大観(京都大学附属図書館蔵 第一類B系統)によれば、本断簡の俊成の「難波人」、「仙人の」が、「仙人の」、「難波人」の順に、俊成卿女の「梅の花」と「あだにちる」の間に「おもかげのかすめる月ぞ」となっている。
国文学資料館 新日本古典籍総合データベースの
また、自讚哥 国文学資料館貴重書では、俊成は「難波人」、「仙人」、「嵐ふく嶺の紅葉の」、「まれに来る」、「散らすなよ」、「立ち返り」、俊成卿女は、「梅の花」、「おも影の」、「あだにちる」の順となっている。
令和2年4月2日 壱