源氏物語 常夏
人びと近くさぶらへば、例の戯れごともえ聞こえ給はで、
「撫子を飽かでも、この人々の立ち去りぬるかな。いかで、大臣にも、この花園見せ奉らむ。世もいと常なきをと思ふに、いにしへも、ものゝついでに語り出で給へりしも、ただ今のことゝぞおぼゆるとて、少し宣ひ出でたるにも、いとあはれなり。
撫子のとこなつかしき色を見ばもとの垣根を人や尋ねむ
このことのわづらはしさにこそ、繭ごもりも心苦しう思ひきこゆれ」
と宣ふ。君、うち泣きて、
山賤の垣ほに生ひし撫子のもとの根ざしを誰れか尋ねむ
儚げに聞こえない給へる樣、 げにいと懐かしく若やかなり。
玉鬘の亡き母の思い出に
源氏
撫子のとこなつかしき色を見ばもとの垣根を人や尋ねむ
よみ:よみなでしこのとこなつかしきいろをみばもとのかきねをひとやたづねむ
意味:撫子と呼んでいた床の懐かしい娘の顔を見たら、貴女の父内大臣は、母の夕顔のことを探させるだろう
備考:参考 帚木。床懐かしきと常夏(撫子の別名)の掛詞。
返し 玉鬘
山賤の垣ほに生ひし撫子のもとの根ざしを誰れか尋ねむ
よみ:やまがつのかきほにおひしなでしこのもとのねざしをだれかたづねむ
意味:山賤の庭の垣穗に生えている撫子の樣な私の、母ことを誰か尋ねるでしょうか
備考:本歌 あな恋し今も見てしか山がつの垣ほに咲ける大和撫子(古今集恋四 読人しらず)
源氏 玉鬘
(正保三年(1647年) - 宝永七年(1710年))
江戸時代初期から中期にかけて活躍した土佐派の絵師。官位は従五位下・形部権大輔。
土佐派を再興した土佐光起の長男として京都に生まれる。幼名は藤満丸。父から絵の手ほどきを受ける。延宝九年(1681年)に跡を継いで絵所預となり、正六位下・左近将監に叙任される。禁裏への御月扇の調進が三代に渡って途絶していたが、元禄五年(1692年)東山天皇の代に復活し毎月宮中へ扇を献ずるなど、内裏と仙洞御所の絵事御用を務めた。元禄九年(1696年)五月に従五位下、翌月に形部権大輔に叙任された後、息子・土佐光祐(光高)に絵所預を譲り、出家して常山と号したという。弟に、同じく土佐派の土佐光親がいる。
画風は父・光起に似ており、光起の作り上げた土佐派様式を形式的に整理を進めている。『古画備考』では「光起と甲乙なき程」と評された。
令和5年11月5日 九點零貳伍/肆