一億総中流社会と言う概念の根底には多様性と言う概念がなかった。
1970年代の一億総中流社会と1980年以降に認識された多様性とは相容れない関係にある面も存在します。
つまり一億総中流社会で多様性なんて認められていませんでした。
その分、自由が少なく、自己責任なんて言う概念すらなかったのでは?
おそらく21世紀以降です。
そしてその問題の根底に責任は受益が負うような司法的なものもあります。
つまり、それ以前はやってはいけないとされた物事については従順にやらなかったし、例の良い子は真似しないではおそらくテレビからかと思います。
それがアメリカ流の訴訟社会でやるなら自己責任と表現するしかなくなったのかと思われます。
その時点で既に社会保障の側面を逸脱する行為が発生するような事案があるのを想定しています。
みんな同じの社会は常識的な行動でして、無茶で目立つような事は避けないと成立しないのです。
基本的には一億総中流社会も幻想でしかなく、検索してみると実際には1985年で12%も貧困率は有ったようです。
それがそう見えなかったのは隠ぺいやテレビの効果もあったのかと思います。
2021年の社会で多様性を保ちながら、意識だけみんな同じとはいきません。
更に情報化社会でそんなに隠せるはずもなく、現実的に差異が露見する方が早いのかと思います。
それに均一を強いると貧しい方向に成り兼ねません。
1970年代は高度経済成長でその分誰にでもチャンスは有る物だと勘違いしていても良かったのです。
労働者ですらインセンティブの時代にコロナ禍のバラ撒きに乗じてノスタルジックな幻想に浸るのは良くないです。
東日本大震災の復興ですら、それに近いバラ撒きや用途で実際の被災者が優遇された福祉にはなりませんでしたから。
なので厳しい話ですが、相対的貧困ではなく支障のある点への支援に絞る方か現実的な財政で済みます。
これまでの福祉は現実的な評価に近づけてセーフティネットで守ってきたのですから。
ノスタルジックな幻想をイメージさせないといけない時点で脆いように感じます。
出来る事なら、法的に問題な点を是正しての努力が報われる社会にしないとやる気が失せては何も捗りません。