
■■■■■■■■■■■美味求心■■■■■■■■■■
北条俊彦
・経営コンサルタント ・前 住友電工タイ社長
■「美酒の極み」
●兵庫県宍粟市が日本酒発祥の地と云われている。
播磨國風土記に宍粟郡庭音村についての記述あり(現代語風に
訳してみると)“大神(おほかみ)の御供米が腐ってカビが生え
てしまった。
そこで村人達は酒に醸造させ 庭酒(神酒)として大神に献上し、
酒宴を催したことで庭酒(にはき)の村と云われたが 今、そこ
は庭音(にはと)の村と云われている・・・“と記されている。
即ち、宍粟郡庭音村ではカビの生えた米を使って 酒を醸造して
いたのである。
因みに宍粟市老松酒造の“スエヒロ老松”を試してみたが、なる
ほど深みのある実に美味い酒であった。
しかし古事記では、八岐大蛇を退治したとされる「八塩折之酒」
は何度も醸した酒と記述されており、また出雲國風土記では“佐
香の河内で神々が御厨を建てて酒を造り酒宴を催された“と記録
されているなど日本酒発祥の地については諸説あるようだ。
●私はいま灘五郷の一つ西宮郷の近くに住んでいる。
灘五郷とは、摂津国西部の沿岸地帯の灘にある清酒酒造の盛んで
あった地域の総称である。江戸時代寛永年間に清酒酒造の先進地
伊丹から雑喉屋文右衛門が西宮郷に移住、西宮郷で酒造りを始め
て以降、明暦、享保と約60年の間に今日に繋がる多くの酒造家
が創業しており、その代表的な清酒銘柄には、
白雪、櫻政宗、菊正宗、白鹿、富久娘、大関、沢の鶴、金政宗、
白鶴、白鷹など皆さんご存知の名酒ばかり。
血糖値を気にしつつも私はその灘五郷のご利益に大いにあやかって
いる。
灘五郷で清酒酒造が何故発展していったのか?
それには、
・優れた醸造技術
・清酒酒造に適した宮水の湧出し
・原料米の集積地大阪や兵庫に近い
・輸送に便利な立地と樽廻船(*)の登場と西宮、
今津の築港、などが考えられるだろう。
優れた醸造技術といえば龍野の醤油は有名であり、天正年間創業
のヒガシマル醤油は今も大いに醤油醸造を続けている。
(*)(「小早」と言われ積荷が単一で積み込みが効率的に行え、
輸送時間が短縮できた。)
積荷を酒に特化し、酒樽を積んでいることから通称「樽廻船」と
云われた。
■「四季の美酒」
●清酒にも四季がある。
清酒造りの年初めが7月で、搾りたて(12月〜3月)の
・冬酒、
・春酒(3月〜4月)、
そして
・夏酒、
・秋酒
となる。
私は涼味を味わう夏酒(冷酒で嗜む)が好みだが、櫻花を肴に呑
む春酒も好きである。いや、冷やおろしの秋酒も実に良い、それ
に搾りたての新酒冬酒も最高である(笑)。
古来、日本人は自然の営み、即ち四季のうつろいに我が生命の四
季を知り、厳しくも優しく豊かな自然にその身を委ねてきたので
ある。
“春ごとの 花に心を なぐさめて 六十あまりの 年を経にける“
(西行法師)
そして、その四季折々の豊かな食彩と酒は大神様からのご褒美な
のである。
西宮郷の清酒白鷹は伊勢神宮御料酒として有名で、例年、新酒を
いただきに参上している。冷酒には“もっきり”という呑み方(升
の中にグラスに溢れるように並々と清酒を注ぐ)があるが、やは
り清酒は升酒に塩が最高である。
酒は呑むべし百薬の長、ここで一句、
“盛り塩の枡の生酒に 神宿る”
“惟神(かんながら)柏手神拝 神酒(みき)に酔う”
■「伝承の核心」
●江戸時代清酒酒造は大坂商人の鴻池善右衛門によって始まった
とされている。善右衛門は尼子家家臣山中鹿之介幸盛の長男と言
われ、父の死後摂津国鴻池村で大叔父山中信直に養育されたが、
後に武士を捨て新右衛門と名を改めたという。
その新右衛門が清酒を造る事ができるようになったのは 全くの
偶然からと言われている。
“主人に叱られた腹いせに店子が酒樽(濁り酒)の中に火鉢の灰
をぶち込んだのだが、その後白かった筈の酒が透明に澄み、しか
も、芳香な香りを放っていた“ことからだそうだが真偽の程は分
からない。因みに、伊丹酒“白雪”が今も残る鴻池系の清酒である。
江戸時代初期は、摂津国の伊丹や池田が酒造先進地として栄えて
おり、中津川河口の伝法を大阪湾の玄関として彼らの清酒が江戸
へ送られた。上方から送られた清酒は「下り酒」と呼ばれ江戸の
人々から重宝愛飲されていた。●鴻池新田の会所跡
●大坂を代表する豪商鴻池家について少し触れておきたい。
鴻池家の基礎は初代鴻池新右衛門による清酒酒造を基にした
多角経営の成功にあった。即ち、
①酒造業:濁酒→1600年に清酒製造を始める
②物流業:清酒などの物流海運
③清酒販売:大坂今橋内久宝寺町に開店などである。
初代新右衛門は八男二女に恵まれ81歳で大往生したが、初代新
右衛門以降も変わらず、鴻池家の家風は「質素」を旨としていた。
酒色遊楽、諸藩の役人との癒着を厳しく禁じ、学問の大切さを説
き、常に学問に接して自立心と物事の善悪を学ぶことが肝要であ
るとした。
三代宗俊の訓えにも「かねて申し渡し置き候通り、素読の義、怠
りなく相勤め候。春夏秋までは見世も手透きに候間、折々講談も
承り候様、いずれなりとも招き、手代中までも、一列に聴聞致さ
るべく候。学問は身の治め第一に心がけ、そのほか善悪の義理を
弁じ候 ための学問に候間、心得違いこれなく候工夫いたさるべき
事」
鴻池一族や別家の者は、質素な生活が定着するように子供の時に
必ず、本家での丁稚奉公を課せられ、それができない者には別家
の相続を認めなかったという。
鴻池家が「大坂一の豪商」に成り上がったのは、本家ではなく
今橋の酒店(上記③)を相続した八男善右衛門正成(まさなり)
の系統であった。善右衛門はこれ迄の多角経営から選択と集中を
計り成功させたのでる。
そして三代宗利の代で、家業の形式が整い、以後守勢を貫く事で
江戸時代を通じ鴻池家は大坂一の豪商の地位を保ち続けることが
できたのである。
●鴻池家の選択と集中とは、
酒造業を止め(米穀を粗末にするものとして忌み)、海運業も縮
小した。そして両替商、大名貸に家業を集中したのである。
家業集中のきっかけは岡山藩の蔵元と掛屋を兼ねるようになった
ことであったが、大名貸とは蔵物を担保に金銭を前貸しその利子
をとって利益を得る方法である(宗利の時代には32藩に大名貸
をしていた。大名貸しは、元金は据え置きのままであったが、10
年も貸し付けていれば利子だけで元金は充分回収できたらしい)
他に大名貸のメリットとして、藩からの苗字、帯刀、俸禄があり、
貸し付けた諸藩からの俸禄を合わせると一万石をゆうに超えてい
たとも言われている。
デメリットは踏み倒し、御家取り潰しのリスクがあるということ。
淀屋取り潰しなどはその最たる例であろう。
また、鴻池組は10人両替商(銀行のような大きな金融業者)に
選ばれていたが、幕府への多額の献金や、米価暴落を避けるため
の米の買い上げ等、決して得な役職ではなかったようだ。
■「語先礼後」(枡野俊明曾洞宗建功寺住職のことば)
●『鴻池家 家訓』
“人は堪忍を第一とす。
忍の徳たる万行苦戒も及ぶべからずと仏言にものたまえり。
己怒りて人に向かえば、人また怒りて己に向かふ。
衣服飲食、行住座臥、
万事己が心に任せず、もっともこらえしのぶべし。
ただへりくだり驕らずして、父母の遺体を守るべき事。“
とあり、
これを現代語訳すると“人は堪忍を第一にするのが良い。
・「忍」は立派な行いであることは、あらゆる修行や苦しい戒め
も及ばないと御釈迦様もおっしゃっている。
・怒りの心で人に向かえば、人も怒って自分に向かってくる。
・日常生活の全ては、なかなか自分の思うようにはいかない。
だからこそ、耐え忍ぶことが大事なのだ。
・ただ謙虚で驕ることなく、父母からいただいた体を粗末にしな
いように“
と戒めているのである。
・人の道を知り、
・徳をもって商いの道を成す商人哲学、
・天の理を畏れ、驕りを慎む心、
・倫理観とその品格の高さに感嘆する。
正に新興階級の商人は支配階級の武士と正々堂々と対峙していた
のである。
最後に、鴻池組は豊かな財力を元手に旧大和川流域で約120町
の新田を開発し「鴻池新田」と呼ばれている。
総石高は875石ほどであったそうだが、往時の繁栄を偲ばせる
“鴻池新田会所跡”が残っている。
学研都市線“鴻池新田駅”下車すぐの所、是非、皆さんにも見学を
お勧めしたい。
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