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■■■■■■■大阪物語(古代大坂と淀屋)■■■■■■■
北條俊彦
経営コンサルタント・前 住友電工タイ社長
■■「古代の大坂」
🔵歳のせいか、最近ちょっとしたことが気になって仕方ない。
例えば,これまで何ら疑問も持たずに 普通に受け入れていること
の成り立ちや由来、そして背景や事実は どうかなどである。
家内に言わせれば“そんなのどうでもいいよ”の世界である。言い
換えれば, 大阪のおばちゃんの会話に占める究極の好奇心5W2H
・いつ,
・どこで、
・だれが、
・なにを、
・なぜ、
・どのように、
・いくらで、
かも知れない(笑)
これは英語で気になって仕方なかったことである。
It’s the time to face the elephant in the room.この文章の下線
部は「見て見ぬふりをしている大きな問題」という 意味なのだ
が何故『部屋の中の象』と表現されるのか?どうもロシア人
作家イヴァン・クルイロフの書いた寓話“The Inquisitive Man”
で『ある男が博物館に行き,様々な動物や昆虫 の展示物を詳しく
見て回るのだが, そこに展示されていた 巨大な象の展示物には
全く気が付かなった』ことから、広く慣用句として使われるよう
になったらしい。
そこで、気になったのが寓話とは何か?寓話は擬人化した動物な
どを主人公に, 教訓や風刺を織り込んだ物語(英語fable)である。
代表的な寓話はイソップ寓話。
因みに、童話は昔から語り伝えられたおとぎ話など子供のために
作られた物語をいい、グリム童話・アンデルセン童話などが有名
である(英語fairy tale)。
(出典:amazon.com)
象(Elephant)
🔵原始の時代、即ち10万年から4万年前の大阪にもナウマン
象が生息していた。大阪市平野区にある長原遺跡からはナウマン
象の臼歯、そして住吉区の山之内遺跡からは多くの足跡が発見さ
れている。
ナウマン象は原始の時代日本列島に生息していた象の一種である。
今のアジア象に近い。明治の御用学者で我が国化石長鼻類研究の
草分けでもあるドイツの地質学者エドムント・ナウマンに因んで
『Elephas namadicus naumannni』と命名され、以来,和名では
ナウマン象と呼ぶ。
(出典:国立科学博物館)
🔵紀元前七千年頃の縄文時代、縄文海進で大阪湾の海水面
が上昇し、上町台地は大阪湾に突き出た半島になっている。半島
の東側には河内湾と称される内海が広がる。
その半島東岸には 縄文中期から弥生、古墳、そして歴史時代にま
で亘る 複合遺跡「森ノ宮遺跡」が遺されている。先人がこの地
で暮らした証であろう 西日本有数の貝塚が発見されている。
(出典:Ameblo.JP)
弥生時代(紀元前三世紀〜紀元三世紀) 河内湾は淡水化し河内潟、
そして河内湖へと変化していった。「古事記」に神武天皇が東征
で浪速の渡(なみはやのわたり)を越えて河内湾に進入,楯津 (古
事記編纂時は“日下の蓼津”と記載。今の生駒山麓東大阪市日下)に
上陸したと記される。
稲作の広まりで農耕生産は飛躍的に伸び、河内湖周辺には多くの
人々が定着し,大規模な集落が現れた。半島東岸に港(難波津)を
築き、豊かな水路を利用して物流路を開拓、近畿だけでなく西日
本や九州、そして大陸まで盛んに交易を行なった。
古墳時代(三世紀〜六世紀末)ヤマト政権は大陸との通交・通商
を積極的に進め、大陸から文化や技術が流入する古代日本の先進
地域はやがて難波(浪速、魚庭、奈尓波)と呼ばれるのである。
四世紀後期から五世紀初期、仁徳天皇(オオサザキ大王)は難波
高津宮に都を移し、治水のため運河(難波の堀江)を開き、河内
湖の干拓と開発を急がせた。また、日本各地へ繋がる道路も整備
され難波は古代日本の政治経済の中心地として大いに繁栄する。
蛇足だが、河内湖は江戸時代の大和川付替え工事によって全てが
干拓され新田に開発されている。
🔵大和政権の繁栄を象徴するように、仁徳天皇陵など巨大な古墳
群が築かれる。記紀の逸話(民の竈)に語られるように,巨大な御
陵群はエジプトのピラミッドと違い、聖帝(ひじりのみかど)を
初め天皇による仁政の賜である。
寛政三奇人の一人、蒲生君平は 巨大古墳の特徴的な形状を 自著
「山陵史」に「前方後円」と記しており、現在の通称「前方後
円墳」の起源とされる。
(写真)百舌鳥古市古墳群 (出典:毎日新聞社)
🔵応神天皇の難波大隈宮、仁徳天皇の難波高津宮、そして飛鳥
〜奈良時代にかけ,再び都となり造作された難波長柄豊崎宮を総称
して難波宮というが、難波宮は645年〜793年までの150
年間複都、副都の変遷はあるが、古代日本の皇都として永く存在
したのである。
日本という国号、そして, 元号も難波長柄豊崎宮から始められ、
孝徳天皇は改新の詔で難波長柄豊崎宮を我が国最初の首都と定め
たとされる。
🔵地名として大坂が登場したのは 室町時代、そして大坂の名を
世に広めたのが蓮如上人と豊臣秀吉だろう。
蓮如は大坂に巨大御坊(後の石山本願寺)を築くのだが、彼は御
文書の中で度々大坂について言及している。その御文書こそが、
大坂が初めて歴史に登場した文献と言われる。
石山本願寺は、後に大坂城となり秀吉の天下統一の後、大坂は近
世日本の政治経済の中心地となる。
時代は江戸時代に下るが、江戸時代はサムライの時代であった
が,新興階級である商人の時代でもあった。豊臣氏滅亡後、大坂は
政治の中心地でなくなるが、幕府の政策で全国の生産地から米な
ど生活物資は大坂に集められ, 大坂から全国の消費地に送られた
ため、大坂は商都として再生する。
やがて、大坂商人はその経済力を背景に彼らの時代を築き、独特
の町人文化を生み出して行った。
(写真:大阪城と難波宮跡) (出典:健美家)
■■「あきんどの淀屋」
🔵 大坂を代表する「あきんど(商人)」といえば「淀屋」で、
井原西鶴の『日本永代蔵』にも登場する豪商である。
淀屋初代の常安(じょうあん)は、京都山城國出身で太閤秀吉の
時代に大坂へ移り住む。常安には『伏見城築城普請』『淀堤』な
どの逸話が今に残る。
『伏見城築城普請』は、秀吉から“二日の内に 大手門入口の高さ
4間(1.8M/間)幅7〜8間の巨石を排除し、その跡地に練塀
を築け“との命を受ける。巨石の排除には数千人の労働力と 銀5
〜7百貫目もかかる困難な作業と思われたが、彼は僅か銀50貫
目で普請を受けた。
そして巨石の横に巨大な穴を掘り、轆轤で巨石を動かし穴に埋め
込んでしまった。そして二日の内に練塀を完成させてしまうので
ある。
(淀屋常安 淀堤工事図)(出典:okanejiten)
『淀堤の構築』は総延長5Kmの工事だが、街道沿いの松並木を
利用する。一定の距離毎に樹上監視床を設け監督者を配置、作業
指示の徹底と監督、進捗管理を徹底し無事期限内に完成させてい
る。
(写真)大坂夏の陣図屏風 出典:wikipedia)
🔵常安は大坂の陣で徳川家康に従軍し、家康本陣の構築などに加
わり、家康より山城國八幡に三百石の朱印と名字帯刀を許されて
いる(岡本三郎右衛門)。
大坂落城後は遺体の荼毘を申し出、鎧、兜、刀剣の回収販売を許
され巨額の富を得た。
常安の家業は米市を柱とした多角経営であったが、大坂十三人町
(現在の北浜四丁目)に移り、屋号を「淀屋」と称してからは
材木商を営んでいる。
更に、1609年〜1614年に常安橋の架橋など中之島を開拓
し、淀屋の商売活動の拠点とするなど商都大坂のインフラ整備に
も一役買っている。
(絵図)淀屋界隈 (出典:日本取引所グループ)
常安は後に, 干魚相場の価格設定権と市場の管理権、そして米市
場の私設を幕府に願い出て認められている。
米市場は、仲買人によって無秩序に決められていた 米の質・量・
価格の混乱を収め, 米相場の基準を設定する手段として機能した。
淀屋の米市場で現物取引以外に行われた『帳合米取引』は,
「世界初の先物取引の起源」とされ、常安の蒔いた金融革命の種
は「デリバテイブ」と名を変え、現在の資本主義経済を席巻して
いる。
🔵二代目言当(ことまさ)の代に、淀屋は、大坂一の豪商として
大坂総年寄りの一人となり、将軍家光より苗字の名乗りを許され
るが、固辞し淀屋の屋号を使い続ける。父に続き、淀屋橋架橋や
中之島界隈の開発を行なっている。
また、諸色値段相場の元方として 大坂三大市場
『堂島米市場』
『雑喉場魚市場』
『天満青物市場』
を一手に掌握し,更に「蔵元」「掛屋」を始めるなど家業を積極
的に拡大させた。
繁栄を極めた淀屋も五代目廣富(通称辰五郎)の時に闕所となる。
闕所時の淀屋の大名貸は一説では、1億貫(現在価値で100〜
200兆円)とも言われる。これが、権力者の間を遊弋し巧みに
権力に繋がり特権を享受し繁栄してきた大坂淀屋の最後である。
(写真)淀屋橋淀屋邸跡
闕所を察知していたのか、廣富は番頭牧田仁右衛門に暖簾分けし、
倉吉淀屋(鳥取県倉吉)を興させている。
闕所後、倉吉淀屋の助力を得て大坂淀屋を復活させているが、安
政の大獄の翌年1859年に倉吉、大坂両淀屋を閉店する。そし
て、倒幕のためにと全財産を貧乏公家岩倉具視を介し朝廷に献上
したとされるが、金額と行先、そして使途ともに不明である。
討幕という公武下級階層による軍事クーデターに投資した淀屋は
その後、歴史から抹消され 闇と謎だけが残る。
(石田梅岩像) (出典:亀岡市ホームページ)
🔵石田梅岩は『都鄙問答:商人の道を問う』で“正しい商
人とは相手の為になって喜ばせ、正当な利益を得る者“として
『商行為の正義(商行為の倫理的な意義)』を説き
『誇りある商人道』を理論化させている。
また、石門心学では『尽心知性(心を尽くし、人の性の善なる
を知り)、正直・倹約・勤勉の三徳を実践し正しく生きる』こと
を説き、多くの商人がその教えを忠実に実践してきたことを考慮
するに、淀屋の商いには何か大切なものが欠けていたのであろう。
最後に、幕末の財政難にもかかわらず徳川幕府は一切手を付けな
かった七部積金170万両は、明治5年明治政府によって接収さ
れたが使途はどうも曖昧。新政府にはやたら金に汚い高級役人が
多かったようだ。
(写真)淀屋3代の墓:(出所:大阪大学工業会)
左から三代淀屋箇斎、初代淀屋常安、二代淀屋言当
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