暮らしの差し色

慢性腎臓病の夫と二人、静かな生活です

青春のフルーツバスケット

2017-06-05 23:37:06 | 日記
通学した公立中学校は横浜市の北のほうだった。

東急田園都市線が、東京へ通勤通学する人たちを見込んで、住宅地を開発、造成し、新築の家が次々と建ち、その中学校へも転校生がどんどん入ってきた。

私もその一人だった。

開発が入る前は、そのあたりは、山林と、田畑で、当時の学校もまだ田舎の学校という印象だった。

私は前から何度も書いたように、人間関係がまず苦手なので、以前住んでいた地域の学校から逃れることができるのはうれしかった。

中学2年で転入して、そのうちに高校入試へと学校は空気が変わっていった。


当時、神奈川県は高校には学区があり、一般的には自分の住所地がある学区の中からだけ、受験する高校を選べた。

今は、学区がなく県立高校ならどこでも受けられるように聞いたことがあるがどうだろうか。


私は、その中で、自宅に一番近い高校を選んだ。

私は9期生となって、まだ大学進学についても実績が少ない新設校だった。


高校に入って、みなクラブ活動に参加する生徒が多かった。

今で言う部活か。

正式なクラブでなくても、同好会を集って活動する人たちもいた。

私は、転居してくる前の中学校でやっていたバドミントン部に入った。


高校一年のクラスでは、なんの時間だったのか、レクリエーションで全員で、ゲームの「フルーツバスケット」をよくやっていた。

私は高校に入るまで、フルーツバスケットを知らなかったし、全員で笑って楽しめるゲームがあることに驚いた。


「3番のバスで通っている人!」なんていうテーマを出す人もいて、ローカルでおかしかった。

46年も前のことだ。


放課後、フォークソング同好会がコンサートをやるのでお集まりください、という情報でみんなで視聴覚室にいった。

フォークソングが流行っていた時代だったので、フォークギターを弾ける男子が多かった。

みんなで歌った。



文化祭のあと、後夜祭で、全校の有志が集まって、フォークダンスをしたり、フォークソングを歌ったり、楽しかった。





高校一年が私にとってカルチャーショックだった。

私の青春は高校一年に集約されていたのだと、今 思う。



コメント
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