六本木の東京ミッドタウンに姪二人とクリスマスイルミネーションを観に行った。
六本木は変わった。
高層ビルが林立して、六本木の交差点の目印のアマンドも新しくなり、「えええ? あれがアマンド?」と思った。
若いころに友達と行ったくらいしか六本木はよく知らないが、縁遠い感じはしていた。
いまは、若い姪たちは、六本木と言っても、別に臆することなく、フツウに歩いて、写真を撮りまくっていた。
クレープを食べに六本木ヒルズに移動。
そのあと、テレビ朝日にも行った。
その帰り、二人は、日本テレビの撮影クルーにつかまり、「ZIP」のモーションをする姿を撮影されていた。
便利なグッズを買った。
バスブーツホルダーだ。
洗濯機の壁面にマグネットで付けるようになっている。
バスブーツは洗濯機の足元のところに放り込んでいたが、こんな便利なものがあるのを知らなかった。
Amazonで安かった。
ネットでいろいろ見てみるものだな、と思った。
私が小学校2年まで、両親は共稼ぎだった。
弟が病気で、小学生の私と姉のさみしがった年齢でもあって、母は退職し、数年間、専業主婦になった。
それまで通勤は、世田谷区の自宅から、大田区の職場まで、父母二人でスクーターに乗り、母は後ろの座席に横座りになって、出発していった。
当時の道交法では、小さいスクーターにヘルメットは強制ではなかったし、後ろの座席に横座りするのも、ローマの休日のように自由だったのだろう。
Amazonのコマーシャルで、孫がおばあさんが若いころに夫とバイクでツーリングしていた写真を見て、ヘルメットをAmazonで買ってプレゼントする。
孫とおばあさんは二人乗りでツーリングに行く、という映像だった。
母は4年前に89歳で亡くなったが、このおばあさんがおじいさんと若いころにツーリングしていたのも、年代的にはあり得るなと思って、ブログに書きたくなった。
うちにある洗濯ピンチハンガーは、軽いのが良いと思って、10年以上前に大半がプラスティックでできたものを2台買った、その1台。
そして、別の1台は重いが丈夫かと思って新たに去年買ったステンレスの1台。
もう1台はほとんど登場しないが、プラスティックだががっしりとした重厚な素材の1台だ。
軽い洗濯ピンチハンガーは、軽いかわりに、素材が貧弱で日光の紫外線で劣化して、もろくなり、洗濯バサミを握った時に、ブチリと砕けるようになった。
いくつもいくつも、別の洗濯バサミと付け替えて、色とりどりのピンチハンガーになった。
そのうちピンチハンガーの本体を構成する肝心なところのプラスティックまで割れて、1台は使用不能になった。
これは捨てることにして、本体とピンチをつなぐ部品も含めて、捨てるピンチハンガーからすべて取り外した。
残ったほうの補修品にするためだ。
きのう干し物をしていると、洗濯バサミに力を入れたとたん割れた。
本体と洗濯バサミをつなぐのもプラスティックだから、変に力を入れて洗濯バサミを取り外そうとすると、その部品まで折れそうなので、金属の輪の部分ををその部品から抜き取ろうとした。
それには、かなりの力がいるので、ペンチを持ってきて、金属を開いていてうまくいきそうな雰囲気だったが、ぱちんとペンチから輪が離れた。
と、思った瞬間、左手の人差し指に金属の輪が刺さった。
バネの勢いがついていたので、びゅんとはじけて指を刺した。
イテッ![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_naki.gif)
洗濯バサミをの逆襲に遭った。
そのあと落ち着いてトライしたら、うまくはずれて、べつの洗濯バサミを取り付けることができた。
プラスティックとは、ほんとに紫外線に弱いと思う。
植木鉢や、プランターも、ほろほろと崩れてしまうことがよくある。
石油製品だから、もとは生物だし、いつかは、土に返るような(か どうかは、良く知らないが)運命で、こうして壊れて当然かもしれない。
10年使っているから、もう限界ではあるのだ。
ステンレスのは、劣化しないようにと選んだが、重くて使いにくい。
夕方、室内に取り込んで、鴨居にひっかけておく際、重くて鴨居がかわいそうになる。
主婦は、洗濯のグッズは、自分の愛すべき相棒で、長く使っているうちに愛着があり、捨てるときは、「長く頑張ってくれてありがとう。お世話になりました。」という心情だ。
洗濯物を取り込んだあとは、ピンチハンガーは、戸棚にたたんでしまい、また、使用するときには、戸棚から出して拡げて竿にぶら下げている。
出しっぱなしにしているのではないのに、劣化していく。
友人は、ベランダにつねにピンチハンガーは出ているというのだ。
だから、強風のときには、飛ばされたことがあると、話をしていたことがあった。
それだと、劣化は早そうだ。
共働きしていたときは、倹約をモットーに 本当に物は長持ちさせておくのを美徳としていたが、余生の年数を数えるような年齢になると、機能的にも質的にも、新しく便利に購入したほうが生活が豊かになると考え方を転換した。
昔に比べて、衣類も日用品も安く手に入るようになったから、新しいものを買うようになってきたが、この先 だいたい充実した老後はあと何年残されているのだろうか。
もっと若いころから、こんな考え方をして、生活を充実させておくべきだったのだろうかと、ふと、思うことがある。
小学校の4年生の時、小児喘息の改善のために、東京都S区立の養護学園に1学期だけ在園し、元いた小学校の7月の終業式前に、自宅に帰った。
養護学園は神奈川県の海岸の小高い丘に建っていた。
ここで、小学4年から6年までの30~40人くらいの児童が、寮生活をしていた。
1階に居室があり、一人当たり一畳程度の規模の細長い和室に8人くらい寝起きをして、壁にひとりずつのロッカーがあり、荷物はそれがすべてだった。
2階に4年、5年、6年のそれぞれ1クラスがあり、4年生は8人だった。
朝食のあと、手提げに勉強道具を入れて、階段を上がれば教室で、それが通学である。
広い園庭もあった。周りは山だった。民家は坂を下った海岸沿いにあったので、学園は独立した生活空間だった。
地元の子どもたちとの交流はほとんどなく、どちらかと言えば、学園の外部には出ることはない閉鎖空間にとどめられていた。
文房具や便箋など必要なものは、管理人さんが月に1回買い物に行ってくれるので、依頼をする。
床屋に行く男子は、決まった日曜日にまとまって管理人さんに連れて行ってもらっていた。
3か月いただけだったのと、GWに里帰りがあったのとで、私は学園にいるあいだに床屋には行かなかった。
毎晩、夕食の後には、食堂に集まって、班の席で宿題などの勉強をする時間がある。
自由時間に自分の班の部屋で勉強することもできるが、勉強机があるのではなく、折りたたみ式の小さなテーブルが一人ずつに1台あるので、それで書き物ができた。
部屋はそれぞれが自由に過ごしているので、部屋で勉強することはあまりなかったような気がする。
日曜日は、分担に分かれて、大掃除をする。
食堂の窓ガラスを磨く当番が多かった。
洗濯は、自分の物を個別に洗うのではなく、担当した数人が洗濯機を回して、干し物もして、夕方乾いたら取り込んで、大きな和室に運び山になっている中から、自分たちの班の児童の名前があるものを畳んで持ち帰る。
授業のあとや、休日に、先生に連れられて、全員で長い坂を下って海岸に降りて、磯遊びをしたり、夏には海水浴の授業もあった。
日曜日の夜は、食堂で、全体の会議が開かれた。
学園に起きた問題事について、話し合いがもたれる。
4年生(9歳)だったので、上級生の話を聞いていた。
学園生活は、人間関係でいやなことばかりだった。
守ってくれる人はいないのだから、全員そうだが、毎日を無事に過ごすためには気が強くなければ生活できない。
授業の教師のほかに、保母さんが2名と保健の先生がいた。
養護学園に来ている児童は、一番多いのが、偏食だった。
次に多いのは、小児喘息だったと思う。
在園は、本人の希望で1学期間の子もいれば、丸々3年間在園して小学校を卒業した子もいたようだった。
そして、私は、家族と離れた淋しい学園の生活はもうコリゴリだったので、1学期間だけで卒園し、元の小学校の同じクラスに復帰した。
卒園したあとの夏休み、父と二人で養護学園に車で行った。
S区から養護学園に赴任した先生たちだから、ほとんど帰省していて、残っているのは、地元に根付いて、先生のご子息が地元の学校に通学している担任のT先生くらいだった。
私は、担任の男のT先生が嫌いだったので、卒園してから会いたいとも思っていなかったけれど、父に連れていかれたのだった。
管理人さんだと思うが、職員室に招じ入れてくれ、呼ばれたT先生が来て、挨拶したり話したり。
担任のT先生が嫌いだったのは、ある出来事がきっかけだった。
在園中に発熱して居室から隔離して、保健室に泊まることになったとき、T先生は高熱の私を2階の学校の図書室に連れていき、
「保健室で寝ているのなら、本を読みなさい」
と、分厚い、大きな硬い表紙の文学全集の数冊を選んで私に持たせた。
1ページの中で上下に2段に印刷された小さな文字の本で、元気なときでも4年生の私には読めないような文豪の難しい文学書だった。
保健室には大好きな保健の年配の女のN先生が一緒に泊まってくれた。
私が高熱なのにベッドで大きな本を読んでいると、N先生はびっくりして、T先生に読むように指示されたことを言うと、そんなことしなくていい、よく眠って体を治しなさい、と言った。
翌日だったか、T先生が様子を見に来たときに本を読まなかったことを知って叱られた。
からだが回復して学校に出るようになるとき、図書室に本を返却した。
それを知ってT先生はかなり怒った。
熱が下がったのなら読めるだろう、と。
私は家にいたときも、難しい本を読む習慣はなかった。
T先生が、本を読めと言ったのはもちろん私への教育的な意味で薦めてくれたのだろうが、私だけに宿題を課されたようで、反発した。
読まなかった。
T先生とは、うまくいってないまま卒園した。
父と学園を訪ねていったので、T先生は、職員室に座っている私に
「学園にいた頃より、白くなったね。おとなしいねえ。もっと元気があったけど。それとも、お父さんがいるから、おとなしくしているのかな。」
などと言って、来たことを歓迎しているような雰囲気はなかった気がする。
保健のN先生は帰省していないので職員住宅にいる、と教えてくれたので、担任の先生とお別れの挨拶をして、そちらに行くと、N先生は、部屋に通してくれて、冷たい煎茶を淹れてくれて、にこにこうれしそうにしていた。
私も年配のN先生が大好きだったのでお会いできたのはうれしかった。
N先生は、おそらく独身でS区に帰省する必要がなくて、残っていたのではないかと思う。
私は、父が、お世話になった学園に私を連れてご挨拶に行きたくて来たのかと思っていたが、今になって思うと、それは違ったと思う。
父は中学校の教員だった。
普通の学校の生徒が、公立の養護学園に行って集団生活をするケースはまれなことであるから、そういう生徒を受け持ちに持つことはめったにないことだろうと思う。
養護学園の内部を見ることでさえ、機会はないに等しいはずだ。
父は、その経験をしたかったのだ。
学園の中を見学して回っていたし、まず、学園を訪問する連絡などせずに車でやってきたのだ。
それに、4月に入園した時には、父が付き添った。
学園中の設備の写真を撮っていた。
父だけでなく、私がいた元の小学校のクラスの担任のK先生も同様だ。
K先生は、私の在園中、養護学園を見学する研修で先生たちの集団が訪問してきたとき、その中に入っていた。
園庭で球技をしていた私を呼んで、話をした。
懐かしくてうれしかったが、そのK先生も、まれな経験を積むことができたのだ。
2年後にK先生は急な栄転をして、管理職になって私たちの学校から離れて行った。
5年生から6年生に進級するときは、だいたい、担任は持ち上がりになるところだが、K先生は転勤していってしまったのだ。
私は60歳を過ぎて、いろいろな経験をしてきて思うのは、人は自分のためにならないことはしないのだと思うのだ。
たとえば、家族に病人がいたら、病人のために看病をしてあげたいと思う気持ちを満たすために看病をするのであって、自発的な気持ちが無ければ行動は起こせない。
誰かを思って行動しているのは、自分がそうしたいという欲求を満たすことができるからだ。
ひねくれた見方をさせていただければ、結局、自分が一番大事なのだと思う。