愛媛県宇和島市からの良いたより♪

私のブログでは次の内容を紹介致します。
1.「神の王国の良いたより」、聖書教育
2.花々、風景写真
3.俳句、他

小学1年生の時の思い出♪

2024-05-05 22:54:17 | 思い出

 学1年生に入学する日を迎え、学校に行くと校庭に桜が満開になっていた記憶が残っています。

講堂で入学式があり、教室に移動したが、校長先生が何を話されたか、担任の先生(女教師だった)が何を話されたかの記憶が残っていません。

 小学1年生になり、記憶に残っているのは学校で教科書を購入(当時は無償ではなく、各自が購入)し、家に持ち帰ると真新しい教科書の手触りと、インクの臭いが新鮮で、書かれているひらがな文字と描かれている絵がとても気に入ったことを覚えています。

 小学校に入ると「あいうえお、かきくけこ・・・」のひらがなを学び、ざらざらした薄こげ茶色のノートに何度も書き、ひらがなを学びました。

 小学1年生になり、ある時クレヨンで絵を描きましたら、先生にとても褒められ、教室に展示された記憶が残っています。私は先生に絵を褒められたことによって、絵を描くのが大好きになりました。

 記憶に残っている当時の生徒さんは、雨の日も藁草履(ゴムでできたゴム草履が出て来たのは小学4,5年生になってからでした。ゴム草履は子供にとって長持ちし、大喜びでした。運動も裸足で、(「防水靴」と呼ばれていた靴を履いて運動をうするようになったのは5年生になってからでした)。雨の日の長靴は中学3年生か高校生になってからでしたので、多くの生徒さんは裸足で登校していました。そのため学校には「足洗い場」があり、廊下は生徒たちの足跡が残るので、1日に2,3回廊下の雑巾がけがありました。

 藁草履もなく、裸足で学校にくる生徒さんも多く、また、ズボンや洋服は破れていて大きな布の継ぎ当てもありましたが、そのような戦後の貧しい時代であっても、子供にとっては貧しい生活と感じることはありませんでした。

 皆様方は戦後の学校生活は如何だったでしょうか。

 現在はとても豊かな生活で、小学生たちは戦後の物資の乏しく貧しかった時代は学ぶ機会がないかも知れません。

 

         居間に咲いている「胡蝶蘭」

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5歳頃から祖母と両親に「掃きだめの中に立つ鶴の姿に見習え」と教えられた♪

2024-05-04 22:51:22 | 思い出

 5歳になった頃から祖母や両親から「掃きだめ(家庭用の生ごみやごみや庭のごみを捨てる場所)の中に立つ鶴の姿に見習え」と、教えられました。実際に、こちらでは掃きだめの中に立つ鶴の姿は見たことがありませんでしたが、教えられた言葉の通りの真っ白な鶴の姿を思い描くことができました。自分なりに意味を理解し、どのような悪い状況や悪い環境・社会状況の中でも、鶴のように汚れなく、清く正しい生き方を貫きたい、と思いを定めることができました。そのためとても幸福な生き方が出来ました。

 さらに、祖母は日本で最初に女医さんになった「イネさん」の話しをよくしてくれました。私は、祖母の話した、その「イネさん」がどにょうな人だったのかを知ったのは、後に中学生か高校生になってからでした。イネさんが卯の町に住んでおられた頃、我が家の裏道を一人で歩いて通って宇和島城に蘭学を学びに行かれていたようです。祖母はそのイネさんとよく話しをしたようで、「女性なのにとても賢く、強く、真面目な人だった」と、言っていたのを覚えています。当時卯の町から宇和島城まで出るには、卯之町から吉田に入る「法華津峠」を超える必要があり、朝3時半~4時には家を出ておられたのではないかと思います。私が帰郷した頃には、イネさんが宇和島城の近くに住んでいたことのある川沿いの住居跡に案内板がありましたが、その案内板が最近はありません。

 祖母は私が中学1年生の時に89歳で亡くなりました。

  祖父は,「受けるより与える方が幸福である」という「利他的な生き方」を貫かれたそうですが、残念なことに私が生まれる2年前に亡くなられていました。

 どの時代にも「さきがけ」となった女性がいらっしゃいますが、その生き方に学ぶべきとが大です。

 

        マークエステル氏の描いた「油絵」

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4,5歳の頃に、マムシ(ハメと呼ばれていた毒蛇)の大群に出遭った記憶!

2024-05-02 23:44:51 | 思い出

 私が4,5歳の時の記憶ですが、夏の雨上がりの日

父に連れられてキュウリ畑にキュウリ取りに行きました。

キュウリ畑の畝と畝の間には枝木が敷かれていて、

キュウリを取るためにその枝木を踏んで畑に入ると、マムシの大群

シュルシュルと、隣の小川に走り、里山に上って逃げました。

びっくり仰天で、父としばらく道に逃げて様子を見ていましたが、

マムシの大群は全部逃げたと思い、再び枝木を踏んでキュウリ畑に

入ると、再び数十匹のマムシの大群が逃げ始めました。

その時、父は気を取り直し、持っていた天秤棒で、逃げるマムシの頭

叩き十匹位捕らえました。

 この出来事を地域の古老に伝えると、古老が私に「将来良いことが

沢山起きる」、と言って慰めてくださいました。

 以来、蛇を見ると恐ろしく、蛇が大嫌いになりました。

その後はマムシの大群に出遭うことはありませんでした。

 皆様方の中にはどんな恐ろしい出来事に遭遇した方がいらっしゃいますか。

 

         ご近所の庭の「アヤメ」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4歳頃から7歳頃までの記憶♪

2024-04-30 23:02:18 | 思い出

 第二次世界大戦も終わり次第に落ち着きを取り戻し

平穏な日々が続くようになりました。しかし、食糧難が続くようになり、当時中年のおばさんは大風呂敷に反物を入れて背中に担ぎ、家から家を訪問販売をされていました。また自転車にトロ箱を積み、魚を売りに来られるおばさんもいました。そうした訪問販売人が来られると祖母や両親は家に招き入れ、食事をさせて親切にする姿を思い起こします。祖母や両親は、早くから家は柿やみかんを栽培しており、収穫にいくと、「振り返ってみてはならない。取り残しは恵まれないひとたちのものだから・・・」と、教えられたものです。稲も「仮の残し」を振り返らないように、教えられました。

 また、祖母は畳裏の「こも編み」を畳屋さんに依頼され、「こも編み」が日課で、私はそのお手伝いもしていました。するとご褒美に飴玉をいただくのが、うれしかったものです。

 また、南西向きの大きな段々畑がありそこでさつま芋栽培をし、澱粉工場に出荷していました。当時家には大きな壺に「芋飴」があり、その飴を箸に丸めて食べていた姿も思い起こします。

 当時楽しみだったのは、「にし野の禿げの峠を歩いて超え」て、隣町の母の実家の春の祭りや秋の祭りに連れて行ってもらえることでした。母のご両親はとても優しい人で、いつもたくさんのご馳走を作ってくださり、そのご馳走を食べるのが楽しみでした。帰る時には3段重箱にご馳走を一杯入れてくださり、持ち帰って家で食べるのも楽しみでした。

 幸いにも私は食料難を知る機会はありませんでした。しかし、4歳を過ぎると親の手伝いで農作業に進んで行っていたのも思い起こします。薩摩芋や里芋堀や、みかんや柿の収穫、稲刈りは腰が痛かったのですが楽しい思い出になりました。

 皆様方は、幼いころの思い出は如何でしょうか。

 

          近くの畑の「ネギ坊主」

 

         

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい高光(たかみつ)小学校と校庭♪

2024-03-04 21:00:56 | 思い出

 4日の午後は、天候に恵まれたので、私が教育を受けた

高光(たかみつ)小学校に行っきました。

私が高光小学校、中学校に通学していた時はまだ

高光村で、私が中学校を卒業した時に、宇和島市に

合併し、中学生は市内の城北中学校に通学するように

時代が変化しいました。

 郷里に帰ってから時々、高光小学校に行きますが、

当時の木造校舎に代わって、オレンジ色の

鉄筋コンクリート造りのモダンな校舎になっていますが、

当時を懐かしく思い起します。

1.懐かしい高光小学校

(1)高光小学校の校舎

 

(2)私が小学校時代からの鉄棒

 

(3)私の小学時代からある二宮金次郎の像。(二宮金次郎のように良く学び、働き、社会に貢献できる人になるよに、学んだものです)

 

(4)懐かしい校庭(校庭は昔のままです)

 

(5)校庭から見る泉水谷の風景(右の山に石切り場があり、その奥が実家の山になっていました)

 

2.高光中学校の跡地に立っている高光公民館と保育園(この場所に木造の中学校がありました)

(1)高光公民館

 

(2)高光保育園

 

 

 

  

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする