家から家の神の王国の良いたより携えて伝道しますが、多くの方々が「信仰を持っている」と、表明されます。しかし、大変残念なことですが、「信仰とは何かを説明できますか」と、お尋ねしますと、大抵の人は答えることが出来ません。
み言葉・聖書は「信仰」は霊の実九つの内の一つであることを明らかにしています(ガラテア5:22,23)。信仰は愛を基軸とするものであることを教えています。み言葉・聖書は「信仰」について次のように教えています。
「信仰とは、望んでいる事柄に対する保証された期待であり、
見えない実態についての明白な論証です」(ヘブライ11:1)。
上の聖句の「保証された期待」という表現は、ギリシャ語のヒュポスタシスと言う言葉を訳したものです。この語はパピルスを用いた古代の商業文書によく見られます。この語は、目に見える状態の根底にあって、将来における所有を保証するものという考えてを伝えています。このことを考えて、モールトン氏とミルガン氏は「信仰は望んでいる事柄の権利証書である」と訳すことを提案しています。「明白な論証」と訳されているギリシャ語のエレンコスという言葉は、ある事柄、それも特に事実と思えることに反する事柄を論証するために証拠を提出するという考えを伝えています。そのため、この証拠は以前には識別されていなかった事柄を明らかにし、、そうすることにより、事実と思われていたに過ぎない事柄を明白に論ぱくします。「明白な論証」、つまり確信のための証拠は極めて明確、もしくは協力なので、信仰は明白な論証と言われています。
ですから、信仰は希望の根拠であり、見えない実態に関する確信を与える証拠なのです。イエス・キリストと霊感を受けたその弟子たちによって伝えられた真理全体は、キリスト教の真の「信仰」の本質を成しています(ヨハネ18:37.ガラテア1:7~9.使徒6:7.テモテ第一5:8)。キリスト教の信仰は、ヘブライ語聖書を含む、完全にそろった神エホバのみ言葉に基づいています。
信仰は実際の証拠に基づいています。み言葉・聖書全体はそのことを証ししています。しかも、私たちが、み言葉に基づき抱く期待・希望は神エホバによって必ず成就することが保証されていることを指しています。実際の証拠に基づかない期待・希望は信仰ではありません。皆様方の抱く信仰は、み言葉・聖書に基づくものであれば幸いです。
静まりし 拘置所通り 梅雨の空 今日の一句
ご近所の庭に咲いてる「コスモス」